恋愛をしてから彼女のことを最優先に考えて行動する人っていますよね。それ自体が否定されるものという訳ではないでしょうが、これで周りが見えなくなってしまい、結果として自分の評価や株を下げてしまう人は多いですよね。なぜなのでしょう。

 脳科学的にいうならば、脳内で分泌されるPEAの作用によって前頭葉の機能が低下し、認知や論理的思考能力が低下している状況にあるからということで説明できるかもしれません。
 

 これで終わりでもいいのですが、せっかくなので最近僕が読んだ本の主張に則って考えてみましょう。マーク・トウェイン著/中野好夫訳『人間とは何か』(岩波文庫)です。

 トウェインが晩年に書いた本書においては、「人間とは畢竟機械にしかすぎぬ」という冒頭からも感じられる通り、悲観主義的な視点から『人間が全く環境に支配されながら自己中心の欲望で動く機械にすぎない』(表紙ママ)ことが論証されています。この本以外のトウェインの著書を読んでないのでよく分かりませんが、これにはトウェインの晩年の思想がよく現れているそうです。僕自身の思想(なんて大層なものではない)は悲観主義的ではないはずですが、自由意志の否定などの点では似通っている気がしました。
 

 『人間とはなにか』においては、人間とは「自己中心の欲望で動く機械」であり、本当の意味での自己犠牲というものは存在し得ないと論じられています。恋愛について考えてみるなら、「彼女のための献身的・自己犠牲的な愛」も、実際はその行動を取ることで自分の欲望を満足させることが第一にあり、彼女がそれによって幸福になるかどうかは副次的なものにすぎない、といったところでしょうか。この論説を前提にするなら、実際は自己中心的な行動に過ぎないにも関わらず、彼氏本人は「彼女のため」が第一だという風に錯覚しているところに彼氏側のナルシズムが感じられます。おそらくここが批判される対象なのでしょう。多分。

 他にも最近読んだ本でエーリッヒ・フロム著/鈴木晶訳『愛するということ』(紀伊國屋書店)があります。人に勧められて読みました。

 「愛とは技術である」、「孤立こそがあらゆる不安の源である」等々、アドラーとよく似た主張だなと思ったのが第一印象ですが、2人の直接の関係は分かりませんでした。反フロイト派なことくらい?知ってる人がいれば教えてほしいです。

 さておき、フロムは恋愛は、他の愛には見られない排他性があるとしつつも、『ひとりの人間としか完全に融合することはできないという意味においてのみ、排他的』だと論じています。この世に生きとし生けるもの全てを愛している上で、1人だけ特別な、完全に融合した存在がいる、くらいの意味でしょうか。これが健全な恋愛の姿、ということでいいんですかね。

 周りに目もくれず、盲目的に「愛し合っている」2人というのは、単に利己主義が2倍になっているに過ぎず、「愛し合う」ことによって得られる、孤立(=あらゆる不安の源)を克服した感覚や、2人の味わう一体感は錯覚にすぎない。フロムの言葉を丸々パクって批判するならこんなところですかね?

 どんな観点から見るにしても、他人への尊重や愛がなく、ナルシズムに満ち溢れた「恋愛」をする人間は批判されて然るべきだと思いました。僕もそうならないように気を付けなくては。杞憂に終わると......それはそれで悲しい。

 

 以上、机上の空論でした。