「赤ひげ」の撮影前、黒澤明はスタッフにベートーヴェン交響曲第九番の合唱”喜びの歌”
を聞かせた。最後にこのメロディーが出なかったら駄目だぞ、と全員をにらみつけた。
という逸話が残っている。
では、3時間にわたる長編映画全体の構成は、スタッフにどう伝えたのか?という
疑問が残る。が「赤ひげ」は黒澤明にとっての第九である、と考えると腑に落ちる。

ヨーロッパではベートーヴェンといえば「運命」「田園」であり、第九の演奏頻度は
きわめて少なかった。ところが日本は違う。年末になればご存知のように「第九」の花盛り。
日本ではベートーヴェンの名曲といえば「第九」なのだ。
今では逆輸入のかたちでドイツでも、年末になると第九を演奏するようになったという。

「第九」は第3楽章にいたるまで人間の苦しみ、愚かな闘争、ひとときの慰め、はかない
夢や憧れが描かれ、第4楽章で突如ハッピーエンドで締めくくる、という構成になっている。
どんなつらい一年も無事に生き延びたんだから良かったよなぁ~、というわけである。

「赤ひげ」テーマ曲を作曲した佐藤勝にも、その意図は十分に伝わっている。
よく聞けば”喜びの歌”を思わせるフレーズがあり、第九の第3楽章「クライマックスに
向かう露払い」の役割もはたしている。

こよなく人間を優しい眼で見つめ続けた黒澤明が、自身が苦しみぬいた果てに辿り着いた
大きな結論が「赤ひげ」だった。劇中の格闘シーンでそれまでの殺陣を封印し、柔術を採用
したのもうなづける。


三船敏郎 赤ひげ