てんちょが「命の尊さ」を語ると、メンドクサイw
雨の連休だ、ちょっと重いことを考えようか?
今年に入って、また、ちょっと釣り人が増えてきた。
TVでの「釣り」の企画モノも多いように思う。
その影響で釣り人が増えつつある感じがあるとかないとか。
釣りを長くやっていたり、本当に好きな人達なら、いいのだが、
急に流行ると考えの浅い人や、ただの釣り好きが、どんどん増えてくるわけだ。
ゴミや騒音などのマナーに関してもそうだが、命を粗末に扱うやからも出てくる。
命の扱い方や、考え方も、釣り人においては、大事なマナーともいえる。
浅い考えの釣り人が増える中、今、ココを見ている人たちだけでも、
もう少し命の重さを考える「釣り人」になって欲しい。
釣り人側が言うには、リリースした2割が死ぬと言うが、実は4割とも言われている。
特にデカイやつほど弱いので、死ぬ率は高い。(写真や計測などで触りたくったりする事も含め)
ちっさいヤツもダメージがでかいので死ぬ率が高い。
釣ると言うことは、殺そうとしていると言うこと。
自分を「釣り人」「釣り好き」と言うのであれば、決して、忘れてはいけないし、逃げてはいけないことだと思う。
自分の釣るバスはOKで 駆除釣りはヒドイ!と言う考えこそが、
実は、一番、バスの命を軽んじているってコトに気が付いてない人が多い。
同じなら、同じハズなのに。
もしかしたら死んでいるかもしれないと言う責任を無視することは、釣った魚の命への冒涜。
逆にバスを殺すことを目の当たりにして、その責を真摯に受けて駆除してる人のほうが、
命の重さを知っているのかもしれない。
(まあ、嬉々として楽しんでるキチガイも居るようだが、それは置いておこうw)
バサーであり、「釣り人」だとか、「釣り好き」だとか、「釣りバカ」だとかいう人は、
自分が魚に対してどれだけ酷い事をして楽しんでいるのかと言う現実に対して、真摯に正面で受け止めて、
逃げずに「それでも、釣りがしたいんだ!」と、心に正直に本性をさらけ出すべきなのだ。
しかし、その魚に対して酷い事をしている自覚を持って、言い放つその言葉の中には、きっと
「人間勝手でスイマセン」「命で遊んでスイマセン」「魚よ居てくれてありがとう・・・」
などなどの思いが含まれるのだと思う。
命に対して、嘘ではなく、本音で応じること、お願いすること、許しを請うことこそが、大切なのだと思う。
それこそが、命を遊びとして扱う「釣り(スポーツフィッシング)」の教えてくれる
「魚の命への尊さ」と言うものなのだと思う。
その辺に転がっている誰が吐き捨てたかも分からない「命の尊さ」なんて言葉に意味はないと思うw
有るという人がいるのなら、ぜひ教えてほしいくらいだ。
釣りにおいて、語るのであれば、「命の尊さ」ではなくて「魚の命への尊さ」でないとおかしいのにw
で、よく釣り人の言う「命の尊さ」って・・・何なんだろう?
僕が思うに、釣りが教えてくれる「命の尊さ」「命の重さ」とは、
「たかが魚」と言う命の軽さであり「魚」と言う生命体への「命の尊さ」である。
魚の命の重さだからこそ釣りを続けることが出来るのだ。
魚の命でも命の重さは平等だと叫ぶのであれば、釣りなんか止めれ!
だって、貴方は、人間を釣ってるってことですよ?
犬猫を釣ってるってコトですよ?
違うでしょ?
そんなこと続けられないでしょ?
ってコトは、一緒じゃないのよ、きっと。
でも、消え行く命に、悲しんだり、感謝したりするって気持ちは、平等に出来るんです。
親父が死んだのと同じ思いで悲しんだり、
美味しいお肉を食べて、その牛だがブタだかに、「美味しかった、ご馳走様、ありがとう・・・」と思う気持ちは、
あなたの、想い方次第で、いくらでも平等に近づけられる。
釣れた魚に、敬意を持って、釣れた魚の命を想い感謝する。
「釣ったら、殺してると思う」それを、釣り人の責だと認め、感じ、心痛める。
それこそが、「命というものへ尊さ」なのだと、僕は思っている。
「尊い」と思うからこそ感謝し殺さないが、「尊い」と思うからこそ、殺していると言う事を認め責を負う。
殺してる責を認め、それでも釣りを止められない。
それが、「釣り人」なんだと思う。
これから来る新人達のためにも、先輩として、そういう重い思いくらいは、少し携えていて欲しいと少し思った。
メンドクサイ釣具屋で、ホントにどうも、スイマセンw
てんちょのつぶやきやってみてますw
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