八岐大蛇

やまたのおろち

日本神話に登場する巨大な蛇の怪物。








参考元サイト
http://dic.pixiv.net/a/%E5%85%AB%E5%B2%90%E5%A4%A7%E8%9B%87
酒呑童子

酒呑童子

しゅてんどうじ

日本の伝承に登場する鬼。 丹波の大江山(もしく伊吹山)に居を構え、茨木童子などの数多の鬼を従えて京都を攻めようとした。 金毛白面九尾孤、大天狗と並んで『日本三大悪妖怪』に数えられる。

邪馬台国とは

謎・不思議


弥生時代前期から後期にかけて、和国は100以上の国が存在していた。これらの国は何十年にもわたって、互いに抗争を繰り返していた。

この抗争は卑弥呼という女王の登場によって終わりを迎えることになる。そして、この卑弥呼が率いていた国こそ邪馬台国である。邪馬台国を頂点に、30カ国ほどの国が生まれた。

邪馬台国という名は、日本人であればほとんどの人が知っているが、実はその実態を示す文献などはほとんど存在せず、遺跡と「魏志倭人伝」からしかその姿を見ることはできない。

「魏志倭人伝」の記述から、邪馬台国は身分がはっきりと差別化された階級社会であったといわれている。

一般庶民は「下戸」と呼ばれ、農民や兵士のほとんどがこの階層に属していた。その下には「奴婢」「生口」と呼ばれる奴隷階級も存在していた。

奴隷たちは、農地開拓、土木建設の労働力として重宝されていたと考えられている。権力は王族が握っており、その中でも女王の卑弥呼は強大な権力を手にしていた。

卑弥呼はほとんど人前に姿を見せず、政治は弟が行っていた。卑弥呼がいる宮室は常時警護されており、卑弥呼の身の回りの世話をする下女は1000人ほどいたと「魏志倭人伝」には書かれている。

このことからも、一般市民と王族の身分の違いがはっきりとわかる。また交易も盛んに行っており、渡来人の技術者を優遇することで国の生産力を向上させ、国の経済を発展させた。


 

邪馬台国はどこにあった?

 

「邪馬台国はどこにあったのか」、この論争は今でも続いている。中でも有名なのが、「畿内説」と「九州説」である。

邪馬台国のことが記された「魏志倭人伝」には、邪馬台国の所在については記されておらず、特徴などしか記されていない。

それゆえに、邪馬台国の所在はいまだに判明しておらず、論争が続いている。この2つの説はいったいどのようなものなのだろうか。


参考元サイト
http://zakisan009.com/yamataikoku-871

弥生時代の世界の様子

西アジアではペルシャ帝国が滅びる頃が弥生時代の開始時期にあたり、パルチア王国を経て、弥生時代から古墳時代に移る頃ササン朝ペルシャが大帝国を築きました。紀元0年頃には、ベツルヘム(現在のイスラエル)でキリストが誕生します。
エジプトは弥生時代がはじまる紀元前300年頃、アレキサンドロス大王に征服され(紀元前332年)、アレキサンドリアを中心にヘレニズム文化の最盛期を迎えます。紀元前30年にはプトレマイオス朝のエジプトがローマ帝国に滅ぼされ、ローマの将軍アントニウスとともに戦ったクレオパトラが自殺、以後、エジプトはローマの属国となります。
ヨーロッパ大陸ではローマが次第に力を増し、一大帝国を築いていく時代にあたります。弥生時代がはじまる頃の紀元前264年、第一次ポエニ戦争に勝利したローマはその後、勢力を拡大し、クレオパトラとアントニウスを破ったオクタビアヌスがアウグストゥスの名で初代皇帝に就任し共和制から帝政に移行、ヨーロッパから西アジアにまたがる大帝国を築きました。弥生時代が終わり古墳時代が始まる頃にあたる紀元313年、コンスタンチヌス帝がキリスト教を承認、キリスト教がローマの国教となります。その後、395年にローマ帝国は東と西に分裂します。弥生時代600年はまさに、ローマが台頭、拡大、衰退し、キリスト教が迫害されながら徐々にその力を浸透させ、ついにヨーロッパでゆるぎない地位を占めていく時代に重なります。ヨーロッパもまた、大きな変化を遂げた時代でした。

1.弥生時代の始まりと終わり

弥生時代の始まりを表す要素1 水田稲作農耕

弥生時代の始まりを表す最も大きな文化的要素は、中国大陸の揚子江流域および朝鮮半島南部から伝来した水田稲作農耕です。およそ1万年にわたり続いてきた縄文時代は、基本的には採集・狩猟・漁労を生業とする食料採集経済でした。弥生時代に水田稲作農耕が開始されたことにより食料生産経済の幕が開けられたのです。

写真:福岡県板付遺跡出土の井堰

福岡県板付遺跡出土の井堰

福岡県板付遺跡、菜畑遺跡など初期の水田跡は水位を調整する井堰や水路を備えていました。木製の農具も当初よりくわ・すきなどが揃っていたことが知られています。これは、弥生時代に日本列島にもたらされた水田稲作農耕が既にかなり高度な水準に達していたことを物語っています。稲作の開始により人口が増加し、収穫率のいい土地を手にしたものと、しないものとの間の格差が開き、土地をめぐる争いも起きるようになりました。水田稲作農耕はこうした社会変革の原動力となっていったのです。


参考元サイト
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/hajimari01.html