創価大学は一般的に開かれた大学であると言える。

構内には、よく散歩中の方々や、創立者の作られた大学を見ようと訪れる人が少なくない。

創価大学は創立者が創価学会の名誉会長であったり、創価学会の歴史に大きく関係しているところから、現状創価学会に所属している学生が大半を占めている。

学内にて真剣に討論している学生の姿も日常的である。

大学内に創価学会の学生が多いから必然的に活動も活動しやすい学内でするようになり、それが当たり前のように通っている。

しかし、開かれた大学であるということを今一度自覚せねばならないと私は思う。

時たまというか、よく見受けられるのが、幹部や友人の動向をべらべらと喋っている人間たちである。

幹部がどうとか、◯◯が活動熱心だとかなんて話しは正直どうでもいい。
あくまでも自分が同なのかという問題であって、活動があまりできてなくとも自分が満足する生き方をしているのなら、それでいいと思う

むしろ、学内のどこにどんなヤツが居るのかもわからないからこそ、開かれた大学の怖さを知り、容易に口に出してしゃべってもいいことと悪いことの区別をつけなければならないと思うのである。

たわいもない話しならいいだろうが、誤解を生みかねない話なんかは言語道断だ。

創価大学は人類の英知の砦だ。

その砦は人によって興隆し、人によって衰退してゆく。

創価大学を作るも壊すも今の私たちの振る舞いにかかっているのだ。

建設は死闘、破壊は一瞬。

大学内のリーダーと呼ばれる人間ほど、その自覚が内容に見受けられるのである。



今日ある後輩からある話を聞いた。

全学代議員会でのことだというのだが、代議員が定数に足らず、その場にいる人が知り合いの代議員を呼ぶという謎の行為によってやっと会が成立するに至ったというのだ。

しかも、議題も進行もすべてが非常に不手際で、結局最終その日の話し合いが無駄足に終わるようなもっていきかたの決議をしたというのである。

実際に参加したわけではないからきちんとした事実として認識することはできなかったが、その子の話を聞く限りではかなりの状態だったようである。

その子は様々代議員や自治会等大学の組織について考えているところがあるようだが、私は別の視点から探りたい。

今の創価大学全般の組織をみて、だんだんと魅力がなくなってきているのではないだろうか?と。

一番顕著な例を出そう。昔は「創立者である池田先生が建てられた大学だから」という理由だけでたくさんの数の生徒が受験しにきた。

しかし、今を見れば、年々少しずつ減ってきている現状がある。
減ってきているという事実には様々な側面があるが、私は今の創価大学に魅力を感じる人が少ないのではないか?と考える。

中にいる我々や、オープンキャンパスにきた受験生だったら少し何かを感じるかもしれない。

しかし、大半の学生は「親のすすめで」や「先輩がすすめてくれて」なんて人が多いのではないだろうか?

特に、「何故大学に来たのか?」という質問の答えに「正直きたくてきたわけではない」という答えが多いのも、これだと思う。

「創立者を求めてきた」という人が少なくなっている現状こそが一番の懸案事項ではないだろうか?
「創立者の思想、哲学」が今世界中にて光を放っているはずが、創価大学ではあまり定着していないのである。

創価大学があるラインまでの目指すべきものとして、創立者はオックスブリッジをあげられている。
オックスブリッジの名を聞くと、世間一般では「なんかすごい」だろう。
東京大学などもそういう感じだと思う。
では創価大学はどういう評価なのだろうか?

どんな組織においても、魅力ある組織に人は集まる。
だからこそ、最初に取り上げた問題などは、結局代議員に魅力を感じる人が少ないという事実の表れだと私は認識している。

魅力ある大学、組織を目指していきたいと思う。

次は私なりに「何故魅力がないのか」を考察していきたい。

この文章がわかりにくい人は対話して欲しい。
今日ある後輩と話していて思ったことである。

頭が回っていないので、ちゃんとした文章になってなければご了承願いたい。

こうして今書き表している文章であるが、「どうあるべきか」を分析してみた。

まず第一に「客観的であること」。
ここを外しては一切意味がないだろう。理想は一切私的感情を外しての文章であるが、今一度自分の文章を読み返してみると、まだまだ文章力が足りないらしく、自分が恥ずかしくなる。
ここを疎かにすると、この文章に対しての賛否をはかるべき対象が変わってくるのではないかと考えるのである。
意図しない問題のすり替えが生じるのだ。

第二に「建設的であること」。
現状をうだうだいくら訴えても拉致があかない。
現状の
「何が問題なのか�」
「どう改善していくのか�」
を徹底的に追及すべきだと思う。
事実をしっかりと認識し、現状を打破しようとする精神こそが発展への道を拓いてゆくからだ。

第三に、「誰人にも侵害しないこと」だ。
今この文章を書いている私自身が凡夫である。
この文章によって誰かの心の中に嫌悪感などのマイナスを植え付けてしまってはならない。
感情的になればなるほど批判的になる。

とある人が書いた文章の中に、「革命精神の持つ危険性とは被害妄想である」とあった。
客観的であったとしても、事実を直接伝えてはいけない場合があると思う。

私たちに人を変える権限はない。
人は自分で自覚して変わるしかないのだ。

だからこそ、私が発するときは今よりも繊細な心配りのもとに築かれた文章で、発していこうとより深く決意した。

この文章は自分への戒めである。