旧約聖書の時代は学校も境界もなかった。

 

聖書が唯一の教育手段だったのでしょう。

民族の歴史と生きる方法を教えるための教育。

 

民話などもそうでしたね。

物語形式をとると人間は理解しやすいです。

 

旧約聖書は原始仏教と同じく、輪廻転生や霊の存在を否定していました。

 

この時代は民族間に戦争がたびたびあり、負ければ奴隷として働かされました。

そんな苦しい時代を生き抜くために、聖書には希望が取り入れられました。

 

メシアが来るという予言です。福音ですね。

それを信じることで苦しみに耐えることができました。

 

現代でもいますね。自分は神だとか、誰だれの生まれ変わりだとか言い出す人。

 

それをイエスという人間が言い出してしまったので、キリスト教が生まれました。

旧約聖書で言っていたメシアですから、旧約聖書の伝統を受け継ぎました。

 

そして、メシアが出現したということで、予言は成就しました。

そうなると、新しい予言が必要になります。なんでもいいんです。苦しい気に耐え忍ぶための大義名分があれば。

 

旧約聖書では、死んだ人は生き返らないと言っていたのですが、無視して、イエスが生き返ったという伝説を作ります。

そして、最後の審判でイエスが迎えにくるという物語に変身しました。

 

前言ったことと、今度言ったことの不合理性は問わない、それが信仰です。

 

一度不合理な物語を受け入れてしまうと、思考は停止し、夢物語を簡単に信じてしまうようになります。

 

一度、不合理なことを信じさせてしまえば、あとのマインドコントロールは簡単です。

 

普通に、合理的に考えればわかることがわからなくなってしまいます。

 

もともとは世の中の上手にわたって行くための教えだったはずです。

科学、教育が発達したいまでは、宗教は引退したほうがいいのではというのが私の考えです。

 

旧約聖書の時代の人々が今の日本の平和な生活を見たら、天国だと思うのではないでしょうか。