動物に意識はあると思いますか?
もちろん、ないワケはないですよね。

そして、人間の意識には、動物と同じ意識のほかに、言葉による認識があります。

言葉による認識がなければ、動物と同じです。

この意識のことを、心とか、ときには、身体と独立しているとして、魂などと呼んでいる人もいます。

しかし、意識は身体の脳の部分に蓄えられた記録情報によって生まれます。

スピリチュアルリストたちが、一生懸命、人生の意味を説きますが、それらはすべて創作以外の何者でもありません。

創作を信じることから宗教は生まれます。
便利な道具として利用するのは、たぶん良いでしょう。

しかし、それが真実として絶対視するのは誤りです。

真実とは、究極の価値観のことを言います。

価値とは人間の都合によって作られたものです。
ですから、価値観は人によってそれぞれです。


これは究極の真実ではないかもしれませんが、もともと、物事に意味などありません。

わたしたちが、存在を意識する前に、存在は存在し、起こっていることが起こっているだけです。

仏陀の悟ったことも、すべてのものは等価だということだと思います。
善のものさしも、悪のものさしも、実際にはないということです。

身体の優位も心(意識)の優位もありません。

今ある状態で、すべてのものが今ここに存在しているだけです。

今の瞬間生まれるものもあれば、今の瞬間消えるものもあります。

私たちの命も同じです。

存在している意味はありません。

意味とは価値観です。

生きて情報を蓄えれば、当然価値観は生まれます。

前にも言ったとおり、価値観は真実とは違います。
人生に意味を見いだせるのも、価値観があるからです。

価値観は思考体系ですから、思考を変えることによって変えることができます。
思考を変えれば、感じ方が変わります。
思考を変えることによって、苦悩を喜びに変えることもできます。

輪廻転生を信じて、心の平安を得る人もいるでしょう。
しかし、その思考だけが平安を得る方法ではありません。

思考は、私たちが生まれた社会からインプットされた情報でできています。
私たちが自分だと思っている自分という意識は社会からインプットされた情報で構成されており、自分独自のものはありません。

個々の意識とは、社会が作り出したもので、輪廻転生し永遠に生き続けるものではありません。

宇宙は永遠に存在するものですが、私たちの意識は肉体とともに消えるものです。

また、長くなりましたが、最近感じるところがありまして・・・

最近、物忘れが激しいのです。
となりの部屋に移動して、あれ、何しに来たっけ?って感じ・・

そして、人の名前をなかなか思い出せない。

映像イメージではハッキリと思い出せるのですが、言葉にならない。

この頃、言葉をもたない動物は、こんな感じなのだろうなと良く思うようになりました。

人間も動物も基本は映像イメージで情報処理をしているのでしょう。

人間は、言葉を持つことによって、いろんな問題ももつようになりました。
「意識」や「こころ」などという抽象語を発明しなかったら、起こらないもんだいもたくさんあったでしょう。

ゆえに、意識は存在ではなく、平和や、世界、あるいは社会、あるいは真実という言葉と同じで、思考を拡大するための抽象後でしかありません。

人間の思考は言葉に依存し、コトバはツールであり道具です。
ですから、思考に惑わされるのではなく、上手に利用して生活を豊かにしてゆくものだと考えます。

人間は社会的動物だから、動物のようには生きられません。
せめて、思考や言葉に振り回されることだけは避けたいものです。