無い袖は振れぬという諺があります。

ニューエイジ思想は、無い袖を一生懸命振っている感があります。

無い袖といっているのは私たちの意識の存在です。

ニューエイジ思想では意識は永遠に存在する実体だと言っています。
それが私たちの本質であり、真我やいろんな言葉で呼んでいます

私たちと言って語っているときは、正しいかもしれません。

しかし、「私たち」と「私」をすりかえると、論理が崩れます。


論理が崩れるということは批判精神が崩壊することです。
いくら言葉を尽くしても、そこには論理は無く信仰の世界に迷い込みます。

真理は永遠に追求してゆくものであり、終わりが無いものです。


信仰は思考停止であり、ニューエイジの思想内容は信仰であり、宗教です。


「私」と「私たち」はまったく別のものです。


「私たち」は全体であり、「私」は全体から切り離された存在です。


確かに、それは繋がった存在ですが、「私」と「私たち」は言葉の上で区別すべきです。


私たち一人ひとりは、全体の中に存在しています。

その全体は、一瞬たりとも止まることなく変化し続けています。

仏教では諸行無常などの言葉で表しています。
ワンネスも同じことです。


確かにその「全体」は常に「いまここ」に在って、生まれるということも、滅するということも無く存在しています。


その「全体」のありかたと、私たち一人ひとりである「個」の在り方を同一視しているのがニューエイジ思想最大の誤謬です。

私たち一人ひとりは、生まれてきて、生きて、死ぬ存在です。
それを受け入れて、初めて人生に輝きを持たせることができます。

当たり前のことを当たり前に受け入れるというところに、真理を追求すれば戻ってきます。
真理を追求するとは論理的思考をすることです。


思考には同一視という手法も含んでいますが、同一視は精神の病を引き起こしている原因となることもあるので注意が必要です。