今日は一日家に引き篭っていました。「今日も」ですね。大学はオンライン授業が基本で一部対面授業ですが、中々やる気が出ません。対面授業に行くのは何ヶ月も前から諦めちゃったのですが、今度はオンライン授業の方も全く出席をしなくなりました。こういう状況になって思い出されるのが浪人時代です。

 やる気が有るとか無いとかを真面目に考えようとした時にはもう殆ど終わっていました。やる気の有無を考えるようになるのは落ち込んで塞ぎ込んでいる証拠なのです。そこからは沼にハマっていってしまいました。大事なのは深く考えないこと。自分の中で塞ぎ込んでるなあと思ったら深く考えないように努力してみて下さい。ただ、自分は深く考えない方が良いというのは頭ではわかっていたのですが、中々実践できませんでした。それは、深く考えることがもっと大切だと思っていたからです。この考えはその時の自分を正当化するものだったのかもしれません。いや、それ以前に、自分が目指すものが人の目を気にしたものであったからでしょうか。んー、言語化するのは難しいですね。今打ち込んでて思いましたが、そうやって深く考えようとしたことは決して無駄なことでは無いのかもしれません。最初は深く考えようとして苦しみますが、徐々に深く考えることが癖になっていくものです。こうなると、昔の自分の課題は深く考えようとしたことよりも別なことに有りますね。癖になっていることに気付かずに深く考えなければ考えなければと意固地になっていた事が課題ですね。そうやって意固地になっている間はすごくイライラします。広い視野を持って物事を考えることは出来ません。そんな状態が続いたら色々なことに失望して更に塞ぎ込むようになります。こんな感じで苦しんでいたのが少し前の自分でした。今は理性で深く考えようとしなくても自然と深く考えようとしているということにやっと気付く事ができたので、前よりは楽に過ごす事ができています。自分にとってその苦しみは必要なことだったのか分かりません。ただ、その苦しみを感じずにいられたらどんな人生を送っていたのかなとは強く思います。自分はそんな苦しみを和らいでくれるのは人との会話にあると思っています。ただ会話するだけではありません。自分の思いを正直に話せる人との会話が大切です。思えば自分の思いを正直に話した記憶はあまり有りません。そんな状況で自分の為に自分で出来ることは限られています。

 これは自分を擁護する為の思いなので正しいのかどうか分かりません。人は誰かと関わらないと生きていけません。虚しいですが、こういう人生も歩んできた人もいるということも認識してくれると幸いです。