霜の月の最初に、朝顔が咲いた。
枯れ寄せるゴーヤの葉の隙間に、ほっこりと咲いている。
他の鉢の朝顔は、すべて添え木に茎をまいて、種の実となった。
4月にベランダーデビューを果たした僕は、半年が過ぎてその熱は冷めやらず。
僕はこれが好きだったらしい。こればかりは期待とおりの僕だった。
芽生え、やがて茎が伸び、葉が広がり、花となっていった。
生まれた赤児が、やがて這えずり、そして駆け回り、成人していく。
なんか似ている。
老は、田沼意次大老といわれたように最上級の位の名称だった。家老はその家を統率する第一人者だ。
老人とは、単に年をとっている人ではなく、数々の経験を積んで人格的に出来上がった人のことをさすという。高齢者にはなった暁には、老人にもなりたいものだ。
人の世界に老があるなら、花の世界にも老があっていい。
老花・・・・うん、これはあってもいいな。
この半年間、ベランダの花々は、酸いも甘いも経験し、風雨に堪え、そうベランダを襲った台風だってあった、それらを乗り越えて今日を迎えているのだから老花だ。
小さな鉢が、その花の家ならば、家老ならぬ花老・・・うん、これもあっていい。
先日亡くなられた赤瀬川源平さんが立ち上げた有志の会である路上観察学会で、東海道五十三次を歩こうということで日本橋から静岡まで行ったときのこと。掛川の先の袋井というところを歩いて目についた立て看板があった。
“老人は家の守り神”
「いいなあこの言葉、小さな町内会の集会所みたいな小屋の前にあったんだけど。なんだかちょっと感動してしまった」とのこと。
赤瀬川さん、だったらこれはどうでしょう。
“老花は家の癒し神” 路上観察学会に採用していただけますか。
暦の上では霜のおりる日
花老様・・・健気な姿に水を注ぐ。