糸田十八文庫

糸田十八文庫

ブログの説明を入力します。キリシタン忍者、糸田十八が仲間に残す電子巻物の保管場所。キリスト教・クリスチャン・ブログ

思索というよりも妄想のようなものと言えるかもしれませんが、このカテゴリーでお願いします。

 

「胸が痛いわ。」ペニンナは思わず声に出して呟いてしまった。胸の芯がきゅっと縮むような感じがした。目を瞑ると、父が縁談を持って来た時の玄関の情景が思い出された。

 

ペニンナは自分が結婚適齢期になれば父が結婚を整えてくることはわかっていた。漠然と頼りになる夫ができて、一人前の女に、妻になるのだと思っていた。レビ人の妻になるのだと伝えられた時は、それなりに誇りも感じ、身の引き締まるような気がした。しかし、その次に告げられたことに心が暗くなった。その人には既に妻がいるというのだった。自分の周りにも二人目の妻になった女はいないわけではなかったが、どうせなら最初の妻の地位が欲しかった。

 

婚礼の時には、最初の妻であるハンナが寂しそうにしているのを見て、少しばかりの優越感があった。ハンナは石女だったから、自分が選ばれたのは、きっと子宝に恵まれるだろうという期待をされてのことだというのが嬉しかった。しかし、結婚生活が始まると、ペニンナの心は沈んだ。夫エルカナは明らかにハンナへの愛情が深かった。間もなく身ごもり、家族に大切にされたので、自分の家族の中での地位は揺るがないという自信が湧いてきた。それなのに、初めて年に一度の例祭を祝うためにシロに出かけた日の晩、かっと頭に血が上るのを感じることになった。宿で食卓につくと、夫エルカナはハンナには特別な分を用意させていた。私は子孫を残すための道具でしかないとでもいうのか。平静を装いはしたが、怒りが深く胸に沈んでいくような気がした。ハンナの方を盗み見ると、彼女が悲しんでいるのが見て取れた。エルカナが用意させた食卓の特別の分が、むしろ「お前には子がない」という事実を突きつけているように思えるのだろう。そう心中を推察すると、少し溜飲が下がるような気がした。

 

年が進むにつれて、ペニンナの怒りはますます募っていった。毎年のように子どもが生まれたのに、エルカナの心はいつもハンナのものだった。「ヤコブの愛情を妹のラケルと激しく争ったレアの気持ちがよくわかるわ。私も負けないんだから。」例祭でシロに行く時には、ペニンナはハンナに子どもがないことを思い知らせ、彼女が泣くのを見て憂さを晴らした。

 

「気に入らないわ。」その年の例祭では、ひときわ意地悪くハンナに当たった。泣きながら宿から出て行くハンナを見て満足していたのに、宮から帰って来た彼女は晴れ晴れとした顔をしていた。間もなくハンナは身ごもって男の子を生んだ。その後も、三人の息子と二人の娘がハンナに生まれた。もう自分には用がないかのような気がして不快な思いがペニンナの心に淀んだ。長男の祝福は自分の産んだ子どもが受け継ぐのだということが、ペニンナの気持ちを支えていた。

 

ハンナの初児であったサムエルがバル・ミツバを迎えると、エルカナは宴会を催した。厳粛で喜ばしいことであったが、ペニンナの心は厚いカーテンで覆われているようだった。宴会自体はサムエルの兄たちの時と変わらないものではあったが、人々はサムエルを特別な目で見ていた。彼が主の預言者に任じられたことをイスラエル全土が認めるようになっていた。ペニンナの重い心は、敗北感であったかもしれない。

 

自分の部屋に戻ったペニンナは、慣れ親しんだトーラーのことを思い出していた。バラク王の呪いを神は祝福に変えられた。ペニンナは心の中で神に思いを打ち明けた。「主よ、このはしためを憐れんでください。私はハンナを苦しめました。でも、私の行いは彼女を祈りに駆り立てて、あなたの祝福につながったのではありませんか。私の夫エルカナの私への思いはわずかです。この失望、この悲しみをあなたはご存知です。あなたに顧みていただく以外に私の慰めはありません。どうか私の悲しみを喜びに変えてください。」ペニンナの唇は震え、かたくつぶった目からはとめどなく涙が流れていた。

 

 

 

 



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イエス・キリストが聖霊によって身ごもったのであれば、ダビデの子孫と言えず、預言は成就していないではないかと主張する人たちがいます。これについては、神の全能という面から忍者的考察ができると思います。

高校の生物の授業で、教師が単体生殖の話をした時に、マリアの懐妊について言及したことがありました。しかし、その場合、生まれたとしても女性しか生まれることはないと考えられます。単体生殖であったのに男の子が生まれたというなら、そこに神の介在を見ることは可能だと思います。

しかし、そこには問題も残ります。マリアの卵子から分割していくならば、果たして堕落の影響を受けていない罪の無い救い主として生まれることはできるでしょうか。できないと考えるべきだと思います。旧里は別な教義を持ち出しますが、今回はそれには触れないでおきます。

ここからが、先に示した神の全能の面からの考察です。神は創造神で全能の神です。マタイによる福音書三章九節で、バプテスマのヨハネは、「神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。」と述べています。また、私たち忍者がよみがえる時に、栄光の体を神から授けられますが、それは新しい創造です。そうでなければ、死後様々な理由で遺体が損壊されてしまって跡形もない場合などは、よみがえられないことになってしまいます。

神がマリアを聖霊によって懐妊させられる時には、胎内に受精卵の状態を創り出したことでしょう。ダビデの子孫なのですから、最低でも生まれた時にはユダヤ人の外見を持っていなければなりません。その遺伝子的要素を、ダビデの遺伝要素を織り交ぜながら組むことは、全能の神にとっては造作もないことです。しかも、その受精卵は聖霊によって発生させられているので、直接的人間由来の要素はありません。このことによって、無原罪の神の子イエス・キリストが誕生するということは可能です。

これは忍者である糸田十八の思索です。こうだったのだ、と断定しているわけではありません。しかし、重要なのは、マリアが受け入れたように、天使ガブリエルの「神はなにもできないことはありません。」という言葉を、信仰をもって受け入れることであると思います。







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奥義書からの思索、説明ですが、特定の文書の説明ではなので、このカテゴリーでお願いします。
 

イザヤ書 六十四章 八節には、「主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです」と記されており、人間が神に創造されたことを示しています。ですから、神に主権が有り、どのように人間を扱われるかは神の御心のままなのです。勿論その扱いは、神の義なる御性質に基づくのですが、その主権を認めないことが人類の罪になります。

 

人間は神の被造物です。創造者にその扱いに関わる主権、権限が有るのは当然です。人間の世界にも著作権が有ります。他人がその著作物を許可なく複製したり、勝手に一部改変してもちいたりすることは禁じられています。著作権に基づいた著作者の権利の理解があり、法的な枠組みが作られているのです。同様に、人間は被造物として、創造主である神を認め、神による人間の生き方のデザインという枠組みを守るのが筋です。

 

イザヤ書四十五章九節には、『 ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、「何を作るのか」とか、「あなたの作った物には、手がついていない」などと言うであろうか。』と記されています。人間は神との関係において分をわきまえていなければなりません。その考え方は、「領域を守る」という別の表現でもあらわされています。ユダ書五、六節の記述を見てみましょう。

 

5 あなたがたは、すべてのことをすっかり知っているにしても、私はあなたがたに思い出させたいことがあるのです。それは主が、民をエジプトの地から救い出し、次に、信じない人々を滅ぼされたということです。
6 また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。

 

この箇所では、人間と神に逆らう霊について扱っていますが、基本原則はどちらにも適用できます。この原則は、私たちの実生活においても実感をもって理解されるべき内容ではないでしょうか。

 

 動植物との関係で考えるとよくわかります。

 菜園をお持ちの方は、雑草が生えるないように手入れをし、野菜以外の植物が生えてきたら取り除かないでしょうか。雑草が菜園という領域に相応しくないからです。家の中にゴキブリなどの虫が繁殖していても平気だという人はいません。居住空間という領域に、そういう虫の類は相応しくないからです。里に下りて来て駆除される害獣も同様です。

 

人間でさえ同じ原則に従って生きているのです。ましてや、創造主である神が、ご自身の定めた領域を守らせるという原則に、被造物である人間が文句をつけていい逆らうことは筋が通っているでしょうか。それが気に入らないために、神は存在しない、もしくは神を無視するという態度を取るならば、領域を守っていない存在としての取り扱いを受けることになります。

 

 

 




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私の聖書日課の中からの気付きですので、このカテゴリーでお願いします。

この聖書箇所を見ますと、ヨシヤ王が、「聖なる箱を、イスラエルの王ダビデの子ソロモンが建てた宮に据えなさい。」という命令を出しています。何年も奥義書を呼んでいる忍者である私、糸田十八でありますが、この記述が一度も心に留まったことがありませんでした。改めて、聖なる箱、契約の箱が、ソロモンの建立した神殿に据えられていなかった時期が有ることに気付かされたわけです。

ちょっと調べますと、ヨシヤ王の祖父マナセ、父アモンは偶像礼拝を推進していましたから、その時代に移動させられたのだろうという説明がみつかりました。至聖所には、代わりに偶像が安置されていたのではないかというのです。

では、聖なる箱、契約の箱はどこにあったのでしょうか。神殿には倉庫も備え付けられていますから、そのどこかにしまわれたのではないかと考えられます。わざわざもっと遠い場所に移すことはあまり考えられません。一方で、心から神に仕えるレビ人の集団が、もっと大事に保管するべきだと考えて、自分達の家に保管したかもしれないという推測もありました。

さて、その後、聖なる箱、契約の箱はバビロンに持ち去られて、行方がわからなくなりました。いろいろな伝説があって、映画の題材にも取りあげられますが、おそらくかぶせてあった金を他のことに利用するために剥がし、木部は再利用か廃棄されたのではないかと思われます。

それで、ヘロデ王の神殿の時代には、至聖所には、「礎の石」と呼ばれる石が安置され、そこで香を炊いたという記録が残っています。元の契約の箱は、神の命令によって作ったものなので、人間が勝手に復元、製作するべきではないという理解が有ったようです。

 

 




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1)二つの初穂―過ぎ越しと五旬節:大麦と小麦の初穂の供え物
  ユダヤ教の三大例祭のうち、過ぎ越しの祭りと五旬節の祭りは、巡礼者たちにとっては一組のようなものでした。間が50日しか開いていないので、二回の往来をするよりはエルサレムに滞在して両方を祝ってから自分達の国に帰ることが通常でした。
  この二つの例祭には、初穂を神に供えるという共通点が有ります。
  過ぎ越しの祭りの期間最初の安息日の次の日、日曜日に、大麦の刈り取りをして一オメルの束にして神殿に運びました。大麦の束は揺祭として神の前で揺り動かされました。同時に、種を入れないパンの要領で大麦の粉と油を混ぜたものを捧げました。
  キリスト教においては、これらの大麦の供え物は、全人類の初穂となって死人の中からよみがえったイエス・キリストと、罪の無い存在であったイエス・キリストが罪の贖いのために父なる神に供えられたことの象徴になっています。イエスの十字架の死によって、例祭の意味が完成したのです。
  五旬節は、過ぎ越しの安息日から七週(四十九日)経った次の日、日曜日(五十日目)に、小麦の初穂の供え物として、種を入れて焼いたパンを神の前で揺祭として揺り動かしました。種入れるのは、人間の罪の性質をも含めて神の民が受け入れられることを象徴しています。この時、パンは二個供えられます。それは、ユダヤ人と異邦人を象徴しています。エジプト滞在中にエドム人に一部が合流したり、出エジプトの時にもケニ人などが一緒に行動したように、ユダヤ人と異邦人が共に神に受け入れられてきたことを示していると考えて良いと思います。
  キリスト教においては、その日に神殿にいた人たちが認識できるように、激しい風のような音と響き、炎のように別れた舌(理解困難ですが、視認できたことが大事です。)、ガリラヤ人が学んだことのない諸外国語で神の偉大な業を語るという印を伴って聖霊の力が弟子たちに臨んだ日と重なります。人々が言ったように、そこにはユダヤ人も改宗者・異邦人もいました。そして、ペテロの説教の後に三千人が信仰に入ったと記録されています。彼らが、新たに聖霊の働きによって神の民となる初穂となったのです。
  当時の五旬節の祭りの実践には、もう一つ象徴的なものがありました。旧約聖書のルツ記が朗読されたのです。それは、ナオミとルツが大麦の初穂の頃にユダの領地に戻り、ボアズとルツが小麦の初穂の頃に結婚することになったという理解に基づきます。ここにも、ユダヤ人と異邦人の結合の物語を見るのです。そして、家系的にはこのボアズとルツの子孫としてイエス・キリストが生まれたのです。イエスが信仰の創始者であり完成者であるということに、この事実も関わっていると言って良いのではないでしょうか。律法の定めた祭りの意味が、イエスにあって成就し、完成したのです。
  イエスの復活と、五旬節の聖霊の降臨による教会の誕生はどちらも日曜日でした。ですから、主の日として、日曜日を尊ぶことが初代クリスチャンから始まりました。(このことは、安息日である土曜日を尊んで礼拝する実践を否定するものではありません。)

2)二つの目に見える印―復活のイエス(信じる者に)とペンテコステの印(未信者に)
  復活のイエスは、イエスに従っていた者たち五百人以上に姿を現し、食事を一緒にしたりして、ご自身の体を伴った復活を証明しました。だからこそ、イエスのことを信じなかったイエスの兄弟たちもイエスを信じるようになり、弟子たちと一緒に集まって祈りに専念したのです。
  しかし、神の御計画はそこに留まりませんでした。忠実に律法を守って例祭に集まるユダヤ人と異邦人の神を敬う人々にも著しい印を見聞きさせて、イエスがメシアであることを証明することが御心でした。神がそのように取り計らってくださったからこそ、ペテロの説教の後に三千人の信じる者が起こされたのです。

3)神の約束の到来(ヨエルの預言の成就と、約束の聖霊の力)
  イエスに従う者たちと使徒たちに聖霊の力が臨んで、神の偉大な働きを宣べ伝えさせたことは、ペテロの説明の通りに、ヨエルの預言の成就でした。ペテロは聖霊の導きによって確信をもってこのことを断言しました。神のみ言葉は必ず成るのです。
  ヨエルの預言の言葉から判ることがあります。このような目的のための聖霊の力は、旧約の士師や預言者の時と異なり、老若男女問わず、身分を問わず与えられるということです。これが、イエスが弟子たちにエルサレムに留まって待ちなさいと命じられた、神の賜物だったのです。
  旧約の預言という約束でも、イエスが弟子に与えた聖霊の約束でも、神の約束は必ず守られ、履行されるのです。そして、この流れの中で最も大事な結論は、「主のみ名を呼ぶ者はみな救われる」ということなのです。私たちは、この約束を握って生きているのです。






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