宝塚アーカイブスの第27,28回目は
「宝塚歌劇における日本舞踊〜宝塚舞踊会が始まるまで〜」
でした。
毎年10月に宝塚大劇場では生徒達の日頃の日本舞踊の成果を発表する「宝塚舞踊会」が行われています。
この「宝塚舞踊会」は昭和28年から始まりました。
小林一三翁は洋楽伴奏で日本舞踊を踊るを宝塚歌劇のアイデアにし、
これまで日本舞踊を舞台の基礎として沢山の作品が作られています。
日本舞踊の家元、久松一肇は御伽歌劇などの作家として活躍していたため、
少女達に振り付けを行うには適任の人物でした。
初期の生徒達は本格的な踊りを習った事がなかったため、
久松氏は日本舞踊や歌舞伎などの知識を元に生徒でもできる様な振り付けを考案し、一から生徒達を指導しました。
この振り付けが宝塚情緒となり、初期の宝塚歌劇の立役者となりました。
もう一人、楳茂都(うめもと)陸平は若干21歳で舞踊教師としてやってきました。
踊りの世界では大いに期待されていた人物でした。
当時の宝塚はピアノで稽古を行なっていたため、
楳茂都氏は初めて洋楽と出会い、
その事が梅本の作風の誕生の元となった。
バレエ形式の日舞などを生み、日本の舞踊会にセンセーションを起こしていきました。
楳茂都氏は欧米留学もし、様々な新風を宝塚に送り込みました。
昭和6年、瀧川未子、天津乙女は舞踊助教師となり、
生徒から初の指導者が生まれました。
昭和8年には日本舞踊専科が天津乙女を中心に20名の生徒で創設されました。
その年には宝塚中劇場で創設記念公演が行われ、
大好評を博しました。
その後も日本舞踊を基礎とした取り組みは宝塚歌劇の大きな流れの一つとなり、戦後さらに大きく発展していく事になりました。
戦後は洋楽ではなく、邦楽伴奏の日本舞踊として続いていく事になります。
花柳禄寿は昭和8年に舞踊教師として招かれ、
戦後は東京から宝塚に移り住み、長きに渡り多くの生徒を指導しました。
生徒達の中には養女となった花柳禄也こと、奈良美也子や、
花柳禄八千代となった春日野八千代などがいます。
昭和28年の第一回宝塚舞踊会では、
花柳禄也、春日野八千代、天津乙女らの踊りによって
宝塚の日本舞踊の質の高さを世に知らしめました。
昭和33年以降は「ゆかた会」と称した舞踊会が開催され、
宝塚五十周年の年に花柳流、藤間流による合同指導が行われ、この年以降「宝塚舞踊会」となり、
毎年恒例の会になっていきました。
その後は花柳流と藤間流が毎年交代で「宝塚舞踊会」の指導を行う様になっていきました。
昭和46年に初めて東京で行われた「宝塚舞踊会」では、
東京でも宝塚生徒の日本舞踊の質の高さは評論家や記者達を驚嘆させました。
昭和49年からそれまでテープ演奏だったものが地方(じかた)の演奏となりました。
長く指導した花柳禄寿が宝塚季刊誌の「歌劇」昭和28年5月号に
この様な言葉を寄せています。
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何といっても、今の若い方たちは、踊りの本質よりも形にばかり捉われ易くて、
先きへ先きへと進みたがりますが、
それだけに、どうしても表面ばかりしか見ていない。
踊りというものは、
こころの問題なのですから、自分の研究心が出れば出るほど、
どこまでも稽古してゆかねばならぬものが出来て来るのですヨ。
それだけに行儀のいい人は早く踊りの本質が掴めますねぇ。」
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この言葉、観ているファンとしても心に刺さりました。
「宝塚舞踊会」はスカイステージでも放送されるのですが、
正直、退屈そうだな、と思って見ていませんでした
今回の宝塚アーカイブスで宝塚の踊りの歴史を振り返ると、
その真髄は日本舞踊にあり、そこから発展していったのであるから、
日本舞踊を美しく舞える事がどれだけ大切なのかがわかりました。
カッコいいショーのダンスばかりではなく、
日本舞踊にも注目してみようかなぁ。。
わかるかなぁ。。


本日も最後までお読みいただき、
誠にありがとうございました✨✨✨
