更新が遅れました。

相変わらず、竹島問題で日本中が(特に保守)が揺れている。

今日の記事はもちろん竹島の話です。

で、悩んだんですよ。 あまりに長いので要約して載せようとしたけど

難しいので開き直って書きました。つーか編集ですな。

在日朝鮮人の戯言

黒字は氏の記事、青字は僕の解説です。 長いので何回かに分けますね。

(ご本人から相互理解のためならば、と許可を頂いております)


【空島】編


>まず島根県「竹島」は過去と現在では名称が変わったという事実も知ってください。この事が実は自体を複雑にしているのです

そもそも李朝は「空島」政策というモノを採っていました

朝鮮半島や中国で猛威を振るった「倭寇」ですが実は
倭寇を装い略奪を繰り返す「偽倭寇」(朝鮮では仮倭と呼ぶ)が相当数存在しており、朝鮮半島の周囲の離島を拠点にしていた為に1417年に太宗が仮倭寇対策として離島を無人にする政策を取りました。
つまり
「島を空(から)にする」という意味で「空島(からじま)」です

その結果、新羅に従属するまで独立国だった于山国(鬱陵島)も「空島政策」の対象の島で島民を本土に移住させ無人島になりました

この島は良質な「竹」が自生しており無人島だったこの島を日本人は「竹島」と呼びたびたび「竹」やアワビやアシカなどを海産物を目当てに渡航していました。


倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の事である。

倭寇の歴史は大きく見た時に前期倭寇と、過渡期を経た後期倭寇の二つに分けられる。また、倭寇の構成員は、前期倭寇では主に日本人で一部が高麗人であり、後期倭寇は中国人が多数派で一部に日本人をはじめ諸民族を含んでいたと推測される。日本の時代区分では南北朝時代から室町時代初期、朝鮮では高麗から朝鮮王朝の初期にあたる(wikiより)


国内の事情から「空島」政策は取っていても李朝は自国の領土だと思っていたので無断で立ち入る日本人に対し1614年に対馬藩を通じて抗議をしようとしますが、江戸幕府は大阪の陣で忙しく相手にしませんでした

その後、鎖国時代になり渡航は許可制になります

許可制になった理由は竹島(鬱陵島・うつりょうとう)が朝鮮半島に近いので李朝との「密貿易」に利用される事や、竹島(鬱陵島)を通じ諸外国と「密貿易」を行う懸念があったからです。その結果米子藩(鳥取県)の大谷家・村川家が独占的に「竹嶼(鬱陵島)渡海許可証」を受け、葵の紋の旗を船に掲げ「竹島(鬱陵島)」に渡航していました。


当時、李朝が空島政策をとっていた背景には往来の難しさがあると思う。

大航海時代を参考にすると帆船(はんせん)のスピードはジョギングか自転車並み(7~13km/h)

鬱陵島は朝鮮半島から130km離れているので10~20時間かかる計算だ。往復なら倍(ちなみに日本から鬱陵島までどれ位離れているかというと、島根県・松江~鬱陵島で約312km。遠いねぇ・・・)

http://tosi.iza.ne.jp/blog/entry/1502618/ 参考


【密航者】

1692年に事件が起きました

大谷・村川家が無人島だと思われていた竹島(鬱陵島)に武装した朝鮮人が53人ほどいたのです

帰国した大谷・村川家は米子藩に伝え、米子藩から竹島(鬱陵島)に朝鮮人がいた事を幕府に伝えると「日本側に負傷者がいなく無事に帰って来たなら問題ない」との回答

1693年に再び大谷・村上家が竹島(鬱陵島)に向かうと、やはり武装した朝鮮人がいたので3人ほどを「密航者」として捕まえて日本に帰国しました

江戸幕府は対馬藩を通じ 李朝に朝鮮人を引き渡す事と同時に
「竹島(鬱陵島)は日本の領土」という事を伝え朝鮮人の「密航」を厳しく取り締まる確約を取る様に!”
と命令します。

江戸幕府からの命令という事もあり藩主だった宗 義倫(そうよしつぐ)が自ら釜山まで赴き身柄の引渡しをすると同時に竹島(鬱陵島)は日本の領土である事を認める交渉を開始します。

両班内で最高権力者だった権大運再び日本による朝鮮討伐が起きる事を危惧し穏便に済ませようと画策します。 
しかし李朝側も竹島(鬱陵島)が「日本領」と認めたくはありません。

その結果、竹島(鬱陵島)は空島政策を取っているので「無人」であり
今後は朝鮮人が竹島(鬱陵島)に渡航する事を徹底的に取り締まる。逆に日本人が竹島(鬱陵島)に渡航する事は自由
とする” ある意味では玉虫色の決着を図ろうとしました。

しかし、
両班内での権力闘争で権大運は敗れ失脚し変わりに最高権力者になった南九万になるとまとまりかけていた玉虫色の李朝側からの提案は白紙にされ

”竹島(鬱陵島)は空島政策を取っているので「無人」であり、朝鮮人が竹島に渡航する事を徹底的に取り締まるかは李朝内部の問題で日本には関係ない。空島政策を取っているとはいえ李朝領土なのだから渡航するには李朝の許可を得る事”

李朝側が強硬姿勢に転じ対馬藩主だった宗義倫も病死します。


【そして鬱陵島(竹島)は李朝の領土に】


ココで江戸幕府は老中だった阿部忠秋が交渉打ち切り
武力による竹島(鬱陵島)領有も視野に入れ開戦する「大義名分」があるかに関し1695年に米子藩に対し竹島(鬱陵島)は米子藩の領土?の根拠など17の質問状を送りました。その返答は・・・


”単なる無人島なので領有した事は無い。竹島(鬱陵島)は隠州地域(隠岐)離島であり、大谷・村上家は米子藩の藩民でも 竹島(鬱陵島)の管轄は松江藩(島根県)なので詳しい事は解らない”


ソレを受け松江藩に17の質問状を送りました。松江藩は

”竹島(鬱陵島)の存在は昔から知っていたが
無人島(倭寇が隆盛だった頃に認識したという事です)のままにしたのは
自国民を移住させるホド価値のある島ではない”

との回答でした

そして江戸幕府は「無用の小島」と結論付け、竹島は李朝の領有する土地だと結論付けます。
そして鎖国政策を実施していたので、無人島では無く李朝の領土になった竹島(鬱陵島)への渡航も「禁止」しました。

その結果、地図には竹島は李朝領土として描かれる様になりました。


下の地図は 韓国側が

「独島(竹島)は韓国の領土だと日本も認めてるだろ!」と主張する根拠にしている地図です地図を逆さまにすると「竹島」と読める。

そして朝鮮半島の横に島があるのが見えますね?

この後、これが大変な騒動の引き金になるのです↓


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