日本とスペイン、概念や価値観の違いに度々驚かされることがある。

題は、「主張と提案」。

もちろん、サッカーの話だ。


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「ここに出せよ、クソッタレ!」


神を侮辱するお決まりの文句を付け加えた、激しい主張がピッチ内で横行する。

これが、スペインでは当然のことなのだ。


しかし、長い間欧州のピッチと言う空間に身を置き、慣れてくると、不思議なことに気付く。


①対抗しようとする主張は伝わらない

②彼らは、聞いていないようで聞いている




日本にいても映像などで届けられる場面で、海外の選手が言い合いをしているシーンなどを見かけることもあるのでは、と思う。

激しい口論の中、彼らが一体どのように折り合いをつけるのか。

そのヒントを、手繰り寄せることができたような気がする。



・彼らスペイン人にとって、それは主張ではなく提案である


「ここに欲しい」「ああしてくれ」「なんで見ていないんだバカ野郎」などなどは、総じて「提案」であることを、肌で知った。


彼らスペイン人は、ピッチ上で組織の収益(勝利)を挙げつつ、最大限の個人の収益(個々のパフォーマンス)を引き上げるために、個々人が「最高だ」と信じる提案をする。



「あそこに出せよ」

『いや、こっちに走れ』


この対話は一見、解が導かれていない。なぜなら、そこに「イエス」という答えが含まれていないからだ。



だが、彼らは「イエス」という答えを含まずとも、流れの中でその答えを含む表現を取り入れる。


さっきまで、そこに走らなかった選手が、3回に1回ほど走るようになる。

そのサインを、見逃してはならない。



ここで不思議なのが、

“対抗しようという主張”

というのは、単なるエゴとして処理されてしまうことだ。


ただのエゴによる主張は、提案に昇華せず、主張を主張のままに空転させられてしまう。




その違いを見極めるのは、僕たち日本人には苦手とされる気がする。


そのすべてが、主張に見える。

それに呼応すれば、単なるエゴとしか映らず、片付けられてしまう。




彼ら(スペイン人)に対し、正当な主張という名の提案を施し、彼ら(スペイン人)が聞き入れ取り入れた表現のサインを見逃さずに汲み取って自分の表現と相乗効果を生み出すことが、欧州のピッチという空間で最大収益を打ち出すために必要不可欠ではないかと感じている。