スペインに来て自分が最も強く感じるのは、「考えるサッカー」が草の根レベルから浸透していることだ。
彼らは、常に「いかに勝つか」という幹を持ちながら、「考える」ことを培養に、プレーそのものを楽しんでいるように見える。
自分が今週一で行っているスペイン人の友達とのフットサル。彼らの平均年齢は32,3歳だろう。自分が来てすぐに彼とは友達になって、その頃から機会があれば一緒にサッカーしていたんだけど、最近になってその捉え方が自分の中で変わってきた。
参加し始めた当初は、もちろん自分が一番スピードがあって、運動量があるから、極端に言えば「フィジカルだけで」どうにかできてしまう環境だった。事実、いつもそうしてた。ボールをもらえば、スペースを見つけて、そこに出て、シュートしてゴールを奪っていた。
来た当初、「日本人に対する信頼」をピッチの中で勝ち取る術を模索していた僕は、あそこでそのベースを築いたように思う。「ゴールをすれば、ボールは来るようになる」。少し極論だけど、それは事実だと今でも思っているし、それが最速手段だと思っている。「コイツは使えない」とピッチの中で判断されてしまったら、まずパスは来なくなる。パスが来なければ、当然ながらどんな技術もピッチの中で生かされることはない。
さらにその中で「ゴールする快感」を改めて覚えたことも大きかったと思う。点を取れば、無条件に認められる。どのピッチでも、どの人間とサッカーをしても、それはサッカー先進国の暗黙の了解となっているように思えた。シュートの意識とは、そのように上がっていくのだと思う。明確な標が示されて初めて、人は無意識的にそこに向かっていける。
でも、最近は違う。
そんなのできて当たり前だから、あえて僕はその環境で「フィジカルを殺して」プレーすることを意識する。スピードを抑えて、コントロールして、相手と同じ状態での駆け引きを意識する。
するとどうだろう。意外とできない自分に気付く。「あぁ、俺は自分の能力に知らず知らずに依存していたんだ」と新たな発見に出会う。
これが楽しい。
うまく行かない。思うように点も取れないし、勝てなかったりする。それは、大きなストレスになる。でも、そのストレスは成長には欠かせないストレスだと、自分は感じている。
本田圭祐は「自分みたいにスピードのない選手が、シャビやイニエスタのようにゲームを創る選手ではなく、メッシやC.ロナウドのように試合を決定付ける選手を目指してもいいと思う」と言っていたが、その感覚は欧州に来てから彼がいろいろな経験をする中で気付いた発見から得たものだろうと推察する。
スピードを殺してプレーすると、意外と周りのやつらが何を考えているか読めてくる。この感覚が、今後自分の役に立ってくるだろうな、と思う。「ここ攻めたいんだな」とか「ここ狙いたいんだな」とか。けっこう考えてるから、アイツらは。ただ棒立ちで来たボール、来たボールに対応するような選手は、ほぼ存在しない。
10人いれば、10人のサッカー観がピッチ上に存在する。その価値観を、いかに反映させていくか。「勝利」という結果に、いかにつなげていくか。これがフットボールの醍醐味ではないかと、僕は最近改めて思っています。彼らとフットボールをしていると、「選手はそれぞれがそれぞれの世界を持っている」という知人の言葉がやけに胸に収まる。
もちろんこういった理屈が通じない場合もフットボールでは多々存在する。それもフットボール。時にめちゃくちゃなんです、うーんカオス(笑)
海外に来て、「新たなサッカーの楽しみ方」を模索していたような気がするし、覚えた気がする。それが、フットボールとの出会いだったんだろうな、とか言うとかっこ良くまとまり過ぎかな。別に大それたことじゃないので、あしからず。聞こえの良い言葉は嫌いですので。十分使ってるか、矛盾w
ただ、どんなレベルであろうと確実に結果を出すことは難しいということ。そのカテゴリーには、そのカテゴリーの実情があり、想いがあり、熱がある。狙って出された結果以外、僕は信用しない。
その意識の上での、運であり偶然だと思うので。その意識だったら、確かに運も偶然も引き寄せるのは本人だと、そう思います。「やることをやれば運は引き寄せられる」が最初に来るのは、僕は逆だと思う。
「考えるサッカー」の本質。それは、選手それぞれがそれぞれの世界観を持った中で、"勝利"という結果の追求の上に成り立つ手段ではないか、と僕は感じています。