「守備的なチームが多かった」
これが、今回のW杯における世界的な見解ではなかろうか。
そして、僕もそう思う一人である。
それは現在の世界のサッカーシーンにおける兆候でもある。
そしてそれを象徴するような一人の男の名前が挙げられる。
ジョゼ・モウリーニョ
昨季インテルでCL制覇を筆頭に国内リーグとカップ戦を含む3冠を達成し、一躍世界のサッカーシーンの主役に躍り出たポルトガル人の名将だ。
サッカー界ではその名を知らぬ者はいないので細かな説明は省きたいが、その影響力は今回のW杯にも大きく反映していた。
そこには2010年の象徴的なひとつの試合がある。
そう、CL準決勝、バルセロナV.Sインテルの試合だ。
端的に言えば、その構図は《攻撃的なポゼッション・サッカー》V.S《組織的な守備からのカウンター》という二大テーマの激突でもあった。
そして、結果から言えば、勝者はモウリーニョ・インテルであった。
あの試合は世界のサッカー関係者に強烈なインパクトを与えた。それと同時に、弱者が強者を打ち破る“下克上戦法”なるヒントをピッチ上にばら撒いた。
・組織的な守備のブロックを作る
・味方の間で穴を作らない(守備時の等間隔のポジショニング)
・2ライン(主にDFラインとMFライン)をPAを基準に設定する
・人数をかけて攻めに来た相手の裏のスペースを徹底的につく
これらを徹底するだけで、バルサのような「世界一」「美しく」「攻撃的な」チームを打ち破れることを身をもって証明してしまった。
これにより、世界のサッカー関係者は確信を持ってこのサッカーを徹底し、勝利に向かうことができた。
この確信を持っててというところがポイントというか、ミソだ。
今までのW杯、というか世界のサッカーシーンは、試行錯誤の中、それぞれのサッカーを体現していた。
だからこそ、各々の国に独自のサッカースタイルがあり、特にW杯のような大会ではその「お披露目会」的な意味合いもあり、そういった“祭典的な”楽しみも少なからず含まれていたように思う。
しかし、この“事件”以来、状況は一変した。
世界のサッカーが二分化してしまったのだ。
今回のW杯の構図は、おおまかにいって
ボールポゼッションV.S守ってカウンター
という二つのサッカースタイルしか確立されなかった。
相手が強ければ、それに対しいかに守備で綻びを作らずに、そしてどこに相手チームの穴を見出しそこにつけ入り得点を生み勝利を手にするか。
また、多くのチームがそういったコンセプトに全神経を集中していたように思う。
大会前から、本命はスペインかブラジルだと言われていた。
その世論のみが独り歩きし、いつしかそれは「その二大チームをいかに打ち破るか」という命題にすり替わっていった。そう、ちょうど昨季すべてのチームが「いかにバルサを打ち破るか」を至上命題としたように。
ドゥンガのブラジルは、ブラジルとしては“スペクタクル”とは程遠い手堅いチームを作ってきた。しかしあれこそ初めて「守備的なチームを作ってきた」という議論になるべきであろう。
他のチームは攻撃的も守備的もクソも端から「スペインを倒すために」守備のブロックをいかに組織的に機能することにしか興味がない。攻撃的か守備的か、という議論すらナンセンスだと思った。すべてのチームが守備的ではないか、と。モウリーニョ的に。
終いには、あのスペインのサッカーでさえ「守備の時間を少なくするためにボールをポゼッションする“守備的ポゼッションサッカー”」で「スペクタクルに欠ける」などとの言われようだ。冗談じゃない。バルサの主力が多いことから確かにベースはあるかもしれないが、この世界のサッカーシーンの風潮に独り立ち向かった勇敢さこそ称えられるべきではないのか。
そう、あまりに守備的な。
《モウリーニョ化》する世界のサッカーシーンの風潮。独自のスタイルなどなんのその。ボールを保持するか、はたまたさせるのか。攻撃を仕掛けるのか、もしくは守備に耐えているように見せてドバっとカウンターを仕掛けるのか。その駆け引きこそがサッカーというスポーツの妙で、醍醐味でもあるはずだ。なのだが、今かなり大部分のチームがそれを放棄してしまっている。そこに、《モウリーニョ化》の恐ろしさを感じている。
サッカーというスポーツそのものの楽しみ。
無論勝利に執着することも勝負の世界の醍醐味ではあるが、すべてのチームがそこに固執することによってその本質を見失ってほしくない、といちサッカーファンとして思わされた大会であった。