今更ですが、数年前ベストセラーになった「悩む力」を読みました。
おおまかなテーマは、「自我」だと思います。 本の中では、夏目漱石とウェーバーという2人の考え方から筆者の考えを展開していくという手法をとっています。特に、漱石の著書、作品はいくつも何度も出てきます。 個人的に漱石の作品が読みたくなりました。
なぜこの本が流行したのか。 つまり、現代社会において、「自我」というものがますます薄れてきているからではないでしょうか。 これだけ情報ツールが発達し、それを利用し多くの情報を簡単に手に入れることができる。それは非常に便利であるし、効率の良い方法だと思います。 だがしかし、「人と人とのつながり」は、ますます希薄になり、如いてはインターネットや携帯など情報ツールを通じてしか他者とのコミュニケーション、つながりを持てない人を生み出しています。 それでは、「自我」はますます薄れるばかりです。
なぜなら、この本に書いてあるとおり、「自我とは他者とのつながりでしか成立し得ない」からです。 人は誰しも一人では生きていない。この世界は広く、誰もが社会という歯車の一員としてこの世に存在しています。その中で、「自分という存在」を示すには、やはり社会という他者とのつながりの中で、自分の存在を承認してもらう以外にないのです。
これを自分の場合は、サッカーに置き換えられます。不思議と、「なぜ自分がサッカーをするのか」という問いに対する答えの一つが浮かび上がります。
「なぜサッカーをするのか」
この問いに対し僕は、
「ピッチ上で自己の存在を証明するため」
と答えます。
僕は、サッカーという事象を通し、むしろそれを一つのコミュニケーションのツールとして利用しながら、他者とのつながりを強固に保ち、自我を確立しようとしているのです。 つまり、サッカーというスポーツは、万国共通ルールも同じ、ピッチも同じ、そういう意味ではとても公平なスポーツです。そのスポーツは、人種も国境も民族も言葉もすべてを超えてのコミュニケーションを可能にします。
僕はその中で、自分という存在を強く意識することができます。 自分が自我を確立しようとする中で、サッカーは大きな意味を持ちます。サッカーを通じて、「自分はここにいるよ」というアテンションを発し、また他者からも「お前の存在を認めているよ」というアテンションを受け取ることができます。こうして自我が少なくとも一つのコミュニティの中では確立され、僕はそこを軸に自分の人生を展開していけるのです。そこに生まれる自信、自尊心。それが僕の日常の支えとなっています。
この現代社会、時代は目まぐるしく移り変わり、ものすごいスピードで進んでいます。その中で、みんな「時間がない」強迫観念に駆られ、他者とのつながりを持つことにあまり重きを置かないような趣があるように思います。 だがしかし、本当の意味で人間が生きるとき、そこには他者とのつながりと自我の確立が必要不可欠であると、僕も考えます。それをこの本を読んで、確認できました。
そして、それは現在人々が抱えている問題そのものなのではないでしょうか。みんな、どこかでもっと自分を認めてもらいたいし、自分が何者なのかをもっと知りたいし、自分が社会や他者とのつながりの中でどんな役割を担っているのかをもっと知りたいのです。それは本能的な欲求であり、心の底の叫びでもあります。
だからこそ、この「悩む力」という著書が、人々の心を揺さぶり、ベストセラーにつながったのではないでしょうか。 一人でも多くの人が、この本から何かを感じ取り、人生をなんらかのポジティブな方向に変えていけるよう願います。そして、おそらく僕もまたその一人となるでしょう。