真田三代風雲録、真田幸村の最後の舞台と私と!
真田三代風雲録を読み終えて、その余韻に浸っている。太閤秀吉の息子秀頼、母、淀君は、成田官兵衛と小幡官兵衛の二人の官兵衛に踊らされ、状況判断ができず、最後には家康に屈して生きるより、大阪城の主として戦うことを決意する。官兵衛が、軍師、黒田官兵衛であったら、時代は変わっていたかもしれない。しかし、真田幸村とその子、大助が、徳川家康の大群を迎え撃った地は、奈良街道から河内の道明寺、誉田あたり、「道明寺の戦い」「八尾若狭の戦い」などの戦い、生き様が描かれている。この背景にある、道明寺は今も近鉄河内長野線に駅名がある。私は大阪で生活していた19歳のころ、お金もないことから、妻とのデートをするとき、JR関西線の八尾から近鉄道明寺まで電車で行き、古市から30分近く歩いて彼女の家まで行った。彼女の家から、八尾の家まで歩いたこともある、2時間近くかかった記憶がある。妻と二人で、一本のラムネを15円で買って分け合ったこともある。喧嘩をした時には、二人で思い出す。その頃は、ここで真田幸村が、後藤又兵衛たちが戦った戦場であったことなどは、微塵も頭になかった。懐かしい土地、河内・道明寺・誉田、真田幸村が徳川家康を迎え挑んだ戦いの地である事を知り、感慨にふけるものである。ちなみに、戦いの地にでてくる誉田には、誉田八幡神宮があるが、ここで結婚式を挙げたことに、その不思議さに、真田幸村への思い・愛着を感じずにはいられない。 ちなみに、拝殿の建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。まさに、「真田三代風雲録」下巻、の戦いのころである。またいつか、真田幸村を思いながら、古墳、記念碑、後藤又兵衛の碑なども訪ねてみたい。【完】