小説を原作とした映画と、もとの小説とは、まったくの別物である……という常識を、わたしは、長い間、ほとんど疑うことがなかった。
どのような優れた映像作家の手になるものであっても、原作を「超える」ことなど不可能であり、もしそれが優れた映画となったのなら、それは原作とは無関係に、その映画が持つ力故なのだ、と信じてきた。
その根拠が揺らいできたのは最近である。
明治の小説を原作とする映画を、学生に見せつつ、近代文学についての講義をする、ということは何度か行ってみた。映画を活用することを思いついたのは、彼らが明治文学を、というかそもそも文学を、読みたがらぬからである。百年も前に書かれた小説にまったく興味を示さぬ彼らに、とりあえず、映画を見せたのだ。すると、たとえば溝口健二の『虞美人(ぐびじん)草』を見ながら、彼らは、大いに哄笑(こうしょう)したのである。わたしは、彼らと話して気づいた。彼らは、原作である『虞美人草』(ややこしい文章だ)を読んでも理解できなかったのに、その小説の本質(とわたしが考えているもの)を、溝口健二の映画を通して見事に理解していた。まるで別物であるはずの映画を見て、彼らはオリジナルの小説の魂を発見していた。そのような力を持つ、そのような関係を映画と持つことのできる小説も存在する、あるいは、そのような関係を小説と持つことのできる映画も存在するのだ。
ところで、いったい、誰が、大西巨人の、真に偉大と呼ぶしかない、天国的な長さを持つ巨大な軍隊小説を映画化しようと考えるだろう。この特異な長篇(ちょうへん)は、その長さによって、題材の地味さによって(昭和十七年の初めの三カ月ほどの新兵訓練中の物語なのだから)、さらに、物語の中核部分が、主人公となる「記憶の人」東堂二等兵が暗記し想起する、過去に読んだ書物や陸軍関係の諸規則・典範・法令の引用であることによって、映像化に頑強に抵抗する。だが、荒井晴彦はこの四千七百枚の長篇を、切り刻み、肉の部分を棄(す)て、混沌(こんとん)とした時間をきちんとした時系列に整頓した。そして、出現したシナリオ『神聖喜劇』は、当然のことながら、小説『神聖喜劇』の、ミニチュアでしかない。それにも関(かか)わらず、ここには、小説『神聖喜劇』の核が、奇蹟(きせき)のように存在している。
法外な作品への法外
な対応としてのシナリオを読みながら、わたしは、これが実際に映画
となって実現する日の来ることを熱烈に夢見
た。あらゆるものの輪郭が緩み、曖昧(あいまい)な言葉が流通するこの世界に、かつて、戦争という巨大な不条理に、ただ一人、言葉の厳格
な適用によって抗しようとした男を再び出現させたいと願った。東堂
は、1942年にではなく、いまこそ我
々にとって必要な人物なのだ。なにより、そのことを気づかせるために、このシナリオはある。