意識は、継続的なものではない。


麻酔や眠りだけで、途切れるものではない。断続的、定期的に、途切れている。

途切れているあいだ、行動はどうなるのか?


それは、無意識が処理を行っている。



自分とは、意識が関与する

そもそも、無意識だけで生きていたら、自分という感覚をもたず、死ぬであろう。

自分とは、スパイク7回発生する、意識と関与する。



スパイクが、3~5回くらいで眠るらしい。麻酔になるらしい。


その状態は、無意識が体全体と同期しているらしい。

意識は、強烈なスパイクが発生した状態で、同期を打ち破った状態。

ある意味、不安定な状態。

それが意識。そして、意識は15秒前の画像処理したものを見ているらしい。

まぁ、意識はとんでいる映像をうまくつなぎあわせているのだから、リアルタイムではなかろう。

たぶん、動物は無意識で情報を処理している。

そして、意識もあるだろう。

ただ、人類と同じような自分という意識形態をもつとはいえない。

これは、こころの世界観をもっているというのと似ている。

動物には、こころの世界観はないだろう。

それは、痛みなどはあるかもしれないが、人類のような自分のものとしては、違うであろう。

だから、人類と動物の自分の概念は全く違うこととして、知らねば勘違いをうむ。

名前をかえても、よい。動物と人類の自分の扱いは、内容が違うため名称を変えるほうがよい。



人類は、自分をすごく神秘的に祭り上げているだけかもしれない。

他の動物となんら有利ではない。

すぐ、滅亡するかもしれない。

自分とかこころの世界観をもっているから、特殊だとおもう。


こころの内部を世界のように、みることができるかが重要になる。

我思う故に我ありの、我ありに気付けるか。



動物は、我思う、までなのだ。

これに気づくためには、言葉や道具などで、
こころの内部に世界を構築しやすくなったのも要因であろう。

そして、こころの内部の世界を通して、そこに生きる自分に気づく。

これで、我ありなのだ。




客観的世界を構築でき、第三者的立場にたつことができるようになって、自分はうまれるのかもしれない。


つまり、自分とは、生物がそれぞれもっているわけではなく、知能の発達によって、生まれたと考えられる。



本来、この世界はワンネスであって、生物ももちろん含まれる。

人類は、自分という概念をうみだすことで、この世界から分断されているようにみえる世界観をつくりだした。

本来、存在しない世界観をうみだした。自分という存在を。それは、逆も然り。その自分という概念に、自己を投影することで、永遠の存在となれる。

自分と他人を同化したような感覚をもてる人とというのは、この自己の概念を解釈による概念で得たものと認識して、獲得したものだろう。いわゆる、悟りの状態であろう。輪廻転生も理解しているようなものか。

今後、時代がすすめば、そうなるのかもしれない。
原始時代の自己の獲得は、動物と大差なかったとおもう。

それも、長い間、進化することで自分というのを痛烈に意識できるようになった。特別と思えるようになった。
自己の概念も変わっていくかもしれない。

人類は、解釈をして、法則性をうみだした。それは、科学技術を発達させ、物質的に豊かにしてきた。


科学技術の発達が、今後も必要なのは間違いない。しかし、その科学技術の発達は、幸せへと結び付くが、昔ほど比例しなくなっている。


物質面ではない、精神面をもっと充実させていく社会の仕組みを考えるべきではないか。


社会の仕組みは、高齢までできるだけ長く健康に生きられるようになっている。

しかし、生きるだけしかケアされていない。精神面のケアはあまり考えてこられていない。


もっと、人間性を養う教育が必要で、もっと仕事も人間性を重視した働き方が考えられるべきであって、そういう考え方がこの日本では特に、軽視され、時にはそれを主張するものなら軽蔑されるような風潮もある。


この社会で生きてきて、高齢になって、仕事で得られた人間関係の希薄さに気づく。そのときには遅く、孤独な高齢生活を歩むことになる。社会的に、このあたりの高齢者の孤独問題を解決するシステムも必要になっていると思う。



日本は、競争社会だ。 


出世の道が閉ざされるだけで、不幸に考える。 お金を人より儲けられないだけでも同じ。または、名声や世間体も。


ちがう。 


違う生き方でも幸せになれる方法があるはずだ。 


自分だけを見つめてはいけない。 


みんな、幸せになれるはずだ。


そう教わっていないだけだ。


教育で何を教えているのか。


世間体やお金、周りとの比較など、そういうものに依存しないで、幸せに、生きていける方法や、世界観、価値観を養うことを軽視しているのではないか。



昔の日本と違い、間違いなくこれから先、今まで通りとはいかなくなる。生活レベルは下降し、国際的にも下降もするだろう。年金も期待もてない。給料は上がらない。数字上では、豊かさを誇る日本ということになっているが、実質はどうであろうか。おそらく、そうではないことに気づいている人達が多いのではなかろうか。気づいていない人たちも実は、思い込みで自分は中間くらいではないかと思っているかもしれない。しかし、そのあたりでは日本で暮らすことは苦しく、息苦しい。なぜか豊かに感じない。


これは、もう間違えているのではないかと思う。


日本がこれまで重視してきたことの方向転換が求められていると思う。


政治が、も重要であるが、国民の意識も必要である。精神の豊かさを求めたい。

そういう教育や仕事環境、社会の仕組みなども考えられたらいいと思う。



 

 

自分という存在を表すものとして、意識が近いと思う。

 

肉体のみを自分とは言わないであろう。

肉体と意識、または、意識のみを自分といえる。

 

すべての生物には、自分という自覚はあるのだろうか?

 

生物にも程度の差はあれ、自分がないものもいて、人類ほではないが、自分を

もっているものもあるのだろう。

 

この程度の差は、どこからくるのだろうか。

 

思うに、言葉の役割が自己を第三者的立場にたつことができたというのもあるが、時間の概念の獲得も大きい。

 

特に、人類は時間が過去から未来へ流れていることを知っている。

そして、過去を振り返られる。この行為が自己をうみだした。

 

今というのは、今から過去を振り返ることで確認できる。本来の今は、

決してそのままを今として振り返ることができない。

 

自分もそうである。自己の確認は、過去を振り返ることで確立する。自己とは、そういう存在。

 

それができる生物が、自己を確立できる。

 

夢を見ている最中の自分は、自分とはいえない、自分と確認できないが、目が覚めて夢を振り返ったとき自分がいたとわかる。

 

自己とは、そういう存在。

 

自分とは、振り返ることができる範囲のもの全てが自分とみなせる。

過去との関係。現在には存在しない。

 

だから、考え方。現象。

時間の概念と、存在、これが自分をうみだす。

自分という、一般的なイメージの存在は、もともといないのだ。

 

意識は現在を照らし出す。

五感だけでなく、こころの内部も照らす。

そのとき、内部に目を向けることで、過去となる。

 

自分というのは、概念である。

自分という存在を客観的にうみだした。

 

もし、生まれて夢をみつづけて、死んだとしたら、それは、自分をもっていたであろうか?

脳死みたいだが。

振り返ることができないなら、

そこには自分はうまれない。

 

時間がながれても存在させる存在がいなければ、自分はいない。

それは、無に等しい。

これは、一般人の世界観。

 

逆に、存在させる存在がいても、時間がながれなければ、自分は存在しない。

これは、ワンネスの世界観。

 

この矛盾を突破するのが、記憶である。

生物は、自己の内部に記憶を形成する。

そのときの世界の様をメモリーできるのだ。

 

記憶は、時間が流れるのに重要な役割を果たす。

 

ワンネスの世界観にこの要素を足すことで理解できる世界になる。時間の流れは、人類のほうでうみだしているのだ。それが、記憶が大きく関わるだろうと思われる。

 

一般人の世界観だと、自分が死んだあと、変わりなく時間も流れるという世界観だが、存在させる存在がいないことになる。それは、無に等しい。

 

他人がいるというが、その他人は、自分が生きている世界観から眺めた他人は、果たして、他人も自分と同じ存在させる存在だろうか?

 

自分しか、この世界が存在することを確認できないのではなかろうか。現存在。だから、自分が死んだ時点で、無に等しい。

 

しかし、世界は間違いなく存続するはずである。

この矛盾は、ワンネスの世界観で解決するのだ。

 

本来、この世界の本質はワンネスのようなひとかたまりで、時間が流れていない。すべて包括した存在である。いや、存在と名付けられなく、ただあるのである。存在は、その存在を確認するものがいてなりたつから。

 

このワンネスの世界に、人類が時間の流れを持ち込むことで、いまの世界が存在する。

 

この世界に始まりがあって終わりがあるという相対性は、人類の勝手な解釈。あるとか、ないとかも同様。あるとかないとかが存在しない存在もあるのだ。存在とはいえなくて、ただ、ある。だけ。

 

コペルニクス的転換が求められている。

時間は人類がつくりだしている。

 

そして、自分というのは、そういう解釈することで発生するのであるから、死んでも繰り返される。

 

自分という概念も結局、自分の肉体や記憶に縛られないから、時間と意識が、自分という概念をつくりだしている。

 

生物は、すべて自分をもっていない。

もともと無機物と有機物は、違いがあっても未分化ぐらいでいまの生物のような神秘性をもっていなかったのであろう。

 

生物が神秘性をもつのは、人類が自分をもつことになってからだ。二元化、精神と物質的な世界観をうみだしてからだ。

それは、存在させる存在と時間の解釈が大きな意味をもつ。

 

存在を感知できることで、異物とみなし、自分というのもうまれた。もともとその存在は、未分化であった。

生物や人類の進化とともに、存在が自分というのもうみだした。

 

しかし、時間がながれない世界観であれば、ワンネスとなり、存在させる存在は、すべて存在するが、自分は存在しない。

 

時間は、自分のなかで流れているのであるが、存在という概念も自分がうみだしているのだ。あるとかないとかは、自分のなかにだけ発生している。

 

時間を伴うことで、存在が、うまれる。

 

その時間と存在させる存在、意識ともいうが、時在というフレーズであらわすが、新たな自己の定義、新たなこの世界観を表すものになるのかなと思う。

 

これらの内容は、ホームページにも載せてますのでよかったら参考ください。

 

初心者のためのワンネス解釈

 

 

ワンネス、ノンデュアリティの解釈はさまざまです。

自分の考えと照らし合わせても惜しいなあ、もう少しで合致しそうなのにとか多いです。





アメリカのイエローストーン国立公園なんですけど。1920年代くらいに、狼を全部駆逐しちゃうんですよね。なんでかというと、家畜を食べてるし、絶滅危惧種になりつつあったアメリカバイソンやバッファローも食べてしまっている。

そういう状況のときに、人間が勝手に判断して、「狼は悪いもんなんだ、じゃあ駆逐してしまおう」と。

一斉に駆逐してしまうんですけど、それによって何が起こったかというと、アカシカの数が爆発的に増えるんですね。アカシカが増えることによって、結局生態系が完全に崩されてしまう。しかもバイソンの餌まで食べてしまう、そしてバイソンの数まで減ってしまう。

それによってだいたい1995年くらいに、狼をもう1回導入しようということになったんですよ。そのイエローストーン公園の中に。それによって、この間やってたニュースなんですけど、20年くらい経った後に生態系が戻ってるんですよね。




親がいないひと、いる人が幸せとはかぎらない。