他者の他者
久々に書きます。
鷲田清一の「じぶん この不思議な存在」を読んだ。
じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書「ジュネス」)/鷲田 清一

¥735
Amazon.co.jp
鷲田さんの文章は好きだったが、本としては読んだことはなかったので彼の代表的な著書を手にとってみた。
じぶんという存在はいったいなんなのか、誰もが一度は考えたことのある問題に正面から問を立てている。
本当に自分の独自の思考や意思は存在しているのか。
鷲田清一の答えはノーだ。
人は他人との関係においてのみ自分を形成しているいきものである。
鷲田はその事を文中では誰もが「他者の他者」であるという表現を用いて説明している。
だから例えば電車の中で化粧をする女性の例をとって目の前に座っている自分をあたかもそこに存在していないかのような振る舞いを受けると自己が他者にとって他者になりえないような想いに囚われ、ひどく落ち着かない、嫌な思いをする。
自己が認識されないというのは人間にとって最も耐え難い苦痛だ。
いじめで一番たちが悪いのは無視することだと言われる理由もそこにあるのだ。
人は例え言語化出来なくてもその事を本能で知っているということだ。
個性というのも他人との関わりなしには生まれ得ない。
小さい頃から自分らしさを見つけようと教育されて来て、それは探せば自分の中のどこかに存在するだろうと考えていればいるほど、この言葉は衝撃的だろう。
自分らしさは他人とじぶんの間に存在しているというのだから。
あらためて、思考が固まる前に多くの人との関わりを持つということの重要性を認識した。
出会い一つ一つが自分を形成するのだから。
鷲田清一の「じぶん この不思議な存在」を読んだ。
じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書「ジュネス」)/鷲田 清一

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鷲田さんの文章は好きだったが、本としては読んだことはなかったので彼の代表的な著書を手にとってみた。
じぶんという存在はいったいなんなのか、誰もが一度は考えたことのある問題に正面から問を立てている。
本当に自分の独自の思考や意思は存在しているのか。
鷲田清一の答えはノーだ。
人は他人との関係においてのみ自分を形成しているいきものである。
鷲田はその事を文中では誰もが「他者の他者」であるという表現を用いて説明している。
だから例えば電車の中で化粧をする女性の例をとって目の前に座っている自分をあたかもそこに存在していないかのような振る舞いを受けると自己が他者にとって他者になりえないような想いに囚われ、ひどく落ち着かない、嫌な思いをする。
自己が認識されないというのは人間にとって最も耐え難い苦痛だ。
いじめで一番たちが悪いのは無視することだと言われる理由もそこにあるのだ。
人は例え言語化出来なくてもその事を本能で知っているということだ。
個性というのも他人との関わりなしには生まれ得ない。
小さい頃から自分らしさを見つけようと教育されて来て、それは探せば自分の中のどこかに存在するだろうと考えていればいるほど、この言葉は衝撃的だろう。
自分らしさは他人とじぶんの間に存在しているというのだから。
あらためて、思考が固まる前に多くの人との関わりを持つということの重要性を認識した。
出会い一つ一つが自分を形成するのだから。
“発信する”ということ
よく学生が掲げるコンセプトに“~を発信する”というものがある。
例えば「東南アジアの現状を発信する」といった具体的なものから、
「学生の考えを発信する」といった漠然としたものまで様々な“発信”がある。
そもそも発信するという日本語には電波や郵便物を送るという意味しか無いので正確に言えば間違っているだろう。
しかしながら、他に丁度いい言葉があるかと言われるとまた難しい。
“伝える”というと確かな対象がいてその対象に向けて、というインタラクティブな意味合いを含むし、
“配信”と言うとどうも事務的である。
“主張する”や“発言する”というのは個人による印象を持つだろう。
なるほど確かにインターネットをなどを使って情報を不特定多数の人に発信するという行為が当たり前になった現在に於いては、「考えを発信する」という言い回しにも納得できる気がする。
実は自分はこの学生による“発信する”という行為が好きだ。
“発信する”事によって学生は社会を意識する。(もちろん発信することをコンセプトにする時点である程度社会を意識しているのだが)
発信をすれば当然反響(=社会への影響を与えたという実感)が欲しくなる。
どうすれば反響が得られるのか、考えを巡らす。
大抵の場合、反響は得られないだろう。
それでも、その過程で興味を広げる事が出来る。
自分に、そして社会に。
さらに言えば自分という範囲を拡張したくなる。
それが本当の「発信する」という事への「反響」だと、僕は思う。
だから、発信する学生が好きだし、それを応援したい。
そして、自分もこうしてブログを書く事で、想いを発信し、自分を広げて行こうと思う。
例えば「東南アジアの現状を発信する」といった具体的なものから、
「学生の考えを発信する」といった漠然としたものまで様々な“発信”がある。
そもそも発信するという日本語には電波や郵便物を送るという意味しか無いので正確に言えば間違っているだろう。
しかしながら、他に丁度いい言葉があるかと言われるとまた難しい。
“伝える”というと確かな対象がいてその対象に向けて、というインタラクティブな意味合いを含むし、
“配信”と言うとどうも事務的である。
“主張する”や“発言する”というのは個人による印象を持つだろう。
なるほど確かにインターネットをなどを使って情報を不特定多数の人に発信するという行為が当たり前になった現在に於いては、「考えを発信する」という言い回しにも納得できる気がする。
実は自分はこの学生による“発信する”という行為が好きだ。
“発信する”事によって学生は社会を意識する。(もちろん発信することをコンセプトにする時点である程度社会を意識しているのだが)
発信をすれば当然反響(=社会への影響を与えたという実感)が欲しくなる。
どうすれば反響が得られるのか、考えを巡らす。
大抵の場合、反響は得られないだろう。
それでも、その過程で興味を広げる事が出来る。
自分に、そして社会に。
さらに言えば自分という範囲を拡張したくなる。
それが本当の「発信する」という事への「反響」だと、僕は思う。
だから、発信する学生が好きだし、それを応援したい。
そして、自分もこうしてブログを書く事で、想いを発信し、自分を広げて行こうと思う。
ストレンジ・デイズ
最近好んで村上龍の作品を読んでいる。
今日、ストレンジ・デイズという作品を読了した。
そのなかに気になる一節があった。
―「この世の中のあらゆるものは、退屈と憂鬱のどちらかであり、そのどちらかの予兆と余韻にすぎない。」
そんなことはないと否定したい願望を呼び起こすと同時に否が応にも受け入れさせてしまうだけの説得力を持った言葉だと思う。
大学に入ってまず感じたのは圧倒的な退屈。
「大学生活とは自由にあふれた時間、言うなれば人生の夏休みだ。」なんて事を聞かされていた。
しかし、待っていたのは何か大きなものに自己の存在を否定されるかのような虚無感。
高校までただ漫然と部活動をしてきた自分にとっては、そこではじめて自由というものの残酷さを知った瞬間だった。
だれも何も与えてくれない。
怖かった。
だから何か“打ち込めること”を求めてサークル活動をした。
それは「憂鬱」だった。
人となにかをする事はとても楽しくて、退屈なんてしなかった。
でも常に頭を悩ませていた。
頭を悩ませ憂鬱になる、そんな対象が存在した。
憂鬱な日々。
甘美な憂鬱。
「残酷な自由」と「甘美な憂鬱」。
この矛盾が人生を面白くする。
そんな気がする。
今日、ストレンジ・デイズという作品を読了した。
そのなかに気になる一節があった。
―「この世の中のあらゆるものは、退屈と憂鬱のどちらかであり、そのどちらかの予兆と余韻にすぎない。」
そんなことはないと否定したい願望を呼び起こすと同時に否が応にも受け入れさせてしまうだけの説得力を持った言葉だと思う。
大学に入ってまず感じたのは圧倒的な退屈。
「大学生活とは自由にあふれた時間、言うなれば人生の夏休みだ。」なんて事を聞かされていた。
しかし、待っていたのは何か大きなものに自己の存在を否定されるかのような虚無感。
高校までただ漫然と部活動をしてきた自分にとっては、そこではじめて自由というものの残酷さを知った瞬間だった。
だれも何も与えてくれない。
怖かった。
だから何か“打ち込めること”を求めてサークル活動をした。
それは「憂鬱」だった。
人となにかをする事はとても楽しくて、退屈なんてしなかった。
でも常に頭を悩ませていた。
頭を悩ませ憂鬱になる、そんな対象が存在した。
憂鬱な日々。
甘美な憂鬱。
「残酷な自由」と「甘美な憂鬱」。
この矛盾が人生を面白くする。
そんな気がする。
