いやはや・・キー入力できるまとまった時間が取れなくてつい今日になってしまった。
若い頃は1時間でも何かと取り組んだものだが、今や1時間では何も取り組む気になれない。
特に目の健康を害してからはメモ帳に入力するのも億劫だ。
『自分は何のために生まれてきたのか?』
故坂本龍一もそんなことを言ってたような。(ちなみに生前は○○さんor○○選手とか、故人は故○○で統一。歴史上の人物名をフルネームの呼び捨てにしないことに違和感があるかもしれませんが、歴史上の人物か否かなんてそれこそ主観でしかない)
既にネームバリューある人ですらそうなんだから、何も特段の実績のない自分はどう考えればいいのか。
まあ冷静に考えると『we ware born』みたいな答えが正解かもしれないが、謂わば達観した考え方と言える。

 

 

たった一度の生を受け、輪廻転生も信じきれないとなれば、そこに必然性を見出そうとするのも無理はない。
『修行するために生まれてきた』というストイックな考え方もあるが、独自の見解が無いでもないが膝を打って納得してもらえるようなものでもないので言わないでおこう。
『目が輝くこと以外するな』
そうは言っても何かに取り組んでいない事には、考え込んでもろくな事考えないので実際は難しそう。
偏見かもしれないが、何かに取り組むのに二の足を踏むのは、プライドが邪魔をして『ものになるかどうか』を考えるからではないか?
自意識過剰すぎる。
ものになろうがなるまいが、大抵は他人にそこまで興味は湧かない。
故橋田壽賀子『死にたいが、積極的に死ぬのは嫌だ』
高齢者の多くは生きていくことにネガティブなことを度々口にするが、自殺することが少ないのは何故か考えてみた。
身の回りに亡くなっていく知り合いが多く、身近に感じるのだろう。
見るもの・触るもの全てが亡くなった方は感じ取ることができず、死んでしまうということに恐怖感が湧くのかもしれない。
最終的に死なない人というのは居ないので死んでいくことはどうしようもないが、積極的に死ぬのは拒否感が湧くのかもしれない。