早目にバイオリンの練習をやめて温室を出た。外は西のサハリンの名に相応しく、ドアを開けたときに吹きつけた風が凍るように冷たい。ここから寮までこの冷たい空気の中を行くのかと思うと、心が折れそうだった。しかし、空模様が怪しくて、いつ降りだすかわからない雪を避けたくて切り上げた練習を思いだしたら、たちまち寮が恋しくなる。

雪がチラつく前に、戻らないと。今日の夕飯はなんだっけ、あったかいものが食べたいな、そんなことを思いながら家路を急ぐ子供のようにうつむきがちに遊歩道を通り過ぎる。

コートの前をかきあわせて駆け込んだ寮は、放課後のリラックス感が漂っている。足早に向かった部屋のドアを開けたら、フワッと甘いシトラスの香りが鼻腔をくすぐった。

「おかえり、託生。今日は早いな」

室内で、見ていた雑誌から目を上げて微笑むギイの声がした。その雑誌の表紙には、びっしりとローマ字が並んでいる。いつも取り寄せているギイのお気に入り。何が書いてあるのかぼくにはさっぱりわからないけど、きっと高校生のぼくは知らなくてもいいことくらいは見当がつく。ぼくに必要なことなら、ギイは教えてくれるはずだから。

「ーただいま」

冷えたからだから出た声は、思いがけず小さかった。まだ顔が強ばって、うまく口が開かない。クローゼットの定位置にバイオリンを置き、つと着替えをどうしようか迷った。

ーこのままバスルームでからだを温めようか。

そうしてもギイは特に気にしないだろうけど。いつもフラリと出かけるギイがぼくを待っててくれたなら、話したいことがあるのだろうか。

コートを着たままクローゼットの前で逡巡していたら、すぐ後ろから声が聞こえた。

「帰ってきたらコートは脱ぐもんだよ、託生」

後ろから回った手が、襟を掴んで横へ引っ張る。コートはするりと肩を滑り落ちた。閉じ込めていたぬくもりを前触れもなく剥がされたようで、首筋がひやりとする。

「寒いなら俺が温めてやるから、せめてコートは脱いでくれ」

笑いを含むギイの声がすぐそばで聞こえるだけで、たちまちぼくのからだは熱を孕みだした。

「わかってるよ。今脱ぐから、ちょっと離れてくれよ」

そう答えるなり、ギイはさっと一歩下がる。その距離分だけ、寒さが戻ってくる。急いでコートとジャケットをハンガーに掛け振り向いたぼくを、ギイの体温がふわりと包む。シャツ越しに感じるギイの温かさに、ほーっと吐息が漏れた。

 

今ここにギイはいないけれど、窓越しに見える雪景色が過ぎた日の何気ない一日のアルバムを開く。そうして今も、君はぼくの心を温め続けている。

 

 

アルバムの中のお気に入り写真は?

▼本日限定!ブログスタンプ

あなたもスタンプをGETしよう