吹き抜ける風に乗って、グラウンドから練習中だろう部活動の声が聞こえる。眩しい空の下、のびのびと練習ができる祠堂の学生は、恵まれていた。目下、市中では自粛が要請されて登校どころではない学校が多いらしいが、山の中腹にぽつりと建つこの学院は、もとより自粛しているようなものだ。麓の町までバスに乗り小一時間、休日でも出掛けて行く学生は限られている。隔離された全寮生の祠堂では、いつもと変わらぬ日常が保たれていた。
変わったことと言えば、島岡がニューヨークから出られなくなったこと。当然ここへも来られない。もし俺が向こうへ呼び戻されれば、二度と託生に会えないかもしれない。そうなる前に、俺は暇を見つけては託生と過ごすようにしている。
今も、下級生たちが退けた隙に、270号室へ向かっていた。部活動が終わればまた、新たな訪問者によって俺の部屋は人の出入りが激しくなる。そこへ託生がやって来ることはないだろう。だから今のうちに、託生を補給しなければ。
そう考えながら階段を下り、ドアの前に立つと、中から賑やかに笑う声が微かに聞こえた。誰か、来ているのか?
構わずにノックすると、ひょっこりと託生が顔を覗かせる。その肩ごしに素早く走らせた視線が、真行寺を捉えた。
「ギイ先輩!ちわっす」
元気よく挨拶した真行寺は、声の勢いに負けぬ動作でぴょこんと立ち上がる。
「じゃ、葉山さん、俺帰るっすね」
気を利かせるようにこちらへ向かってくる真行寺を、片手で制し
「託生、いいのか?」
何か答えようとしていた託生に訊いた。
「え?なにが?」
真行寺から俺へ向いた顔が、不思議そうに見上げてきた。
「何やら、楽しそうだったじゃないか。俺も、仲間に入れてもらおうと、思ったんだけどな」
声を立てて笑う託生なんて貴重な映像、相手が真行寺であることにいささか不本意を感じるが、見逃しては惜しい。
「ああ、真行寺くんが、あんまり変な話をするからだよ」
「それはひどいっすよ、葉山さん。葉山さんだって、頷いてたじゃないっすか」
俺を招き入れながら、託生はまた笑いはじめた。
「いったい、どんな話をしてたんだ?」
託生を促し、託生のベッドへ並んで座る。向かいのベッドへ座り直した真行寺は、不服そうに口を尖らせている。
「や、ね、ギイ先輩。俺も葉山さんも、ひとりっ子じゃないっすか。もし、ギイ先輩みたいなお兄さんがいたら、て話をしてたんすけどね、」
「ギイには妹がいるから、真行寺くん絵理子ちゃんのこと知らなかったんだって!だから、ギイは本当にお兄さんなんだよ、って教えてあげただけだよ、ぼくは」
寮生活で密接な暮らしをするといっても、家族と会うことは通学組より圧倒的に少ない。よほど親しくならない限りは、家族構成まで知る機会もないし、言う必要もない。だから真行寺が知らなくても、それは自然なことであって。俺だって、託生に兄がいたことすら、同室になるまで知らなかったくらいだ。
「ギイ先輩の妹なら、可愛いっしょうね」
「だから口うるさくもなるし、きっと真行寺が想像するような兄貴じゃないよ、俺は」
それがなぜ、声を立てて笑うほど、おかしいんだ?
「そうしたらね、真行寺くん、絵理子ちゃんのイメージを、ギイがそのまま女の子になった姿で想像したんだって」
「ちょっと待て、託生。それなら、真行寺とほぼ同じ身長になるだろう」
「俺と違って、スラッーとして、颯爽としてて、超カッコイイ、キャリアウーマンって感じの女性だったっすけどね」
「いや、真行寺、絵理子はまだ中学生だから。格好よくもないし、キャリアウーマンにはほど遠いぞ」
「イメージっすよ、イメージ。ほんとうのお姉さんだったらよかったのに、てくらい超格好よかったっすよ」
「それほどに褒めてもらえるのはありがたいが、女装した俺っていうのが、なんともなぁ」
託生も真行寺も、平然と、何の違和感も感じないような口ぶりで、とりたてて弾ける様子はない。この程度の真行寺ならば、別段珍しくもない。
「ふふふ、ギイも、そう思う?」
釈然としない気分で髪を掻きあげた俺を、ふわりと笑う託生が下から覗き込んできた。
「ギイも、ってなんだよ」
いぶかる俺に、託生はチラリと真行寺へ視線を向けた。
「俺だけじゃないっしょ、葉山さんだって」
「ん?託生が?」
「ギイ先輩、葉山さんが女装したら、どうなると思うっすか」
「やめろよ、真行寺くん。ギイ、考えなくていいからね!」
時、既に遅し。俺の頭の中には、見慣れた絵理子の服を着た託生が現れていた。その俺を見た真行寺が、
「ですよねえ、ギイ先輩。俺じゃそうはならないっすけど、葉山さんはぜってー可愛いっす」
しみじみと言う。
「ギイ・・・」
睨むように、横目で見る託生の顔がみるみる曇っていく。
「お、俺は何も言ってないぞ、託生。真行寺、託生に女装させるより、三洲の方が興味深いだろう」
託生から目をそらし、ついでに話もそらした。その途端に、春の日差しを受ける室内が、真冬に逆戻りしたかのような冷たさに襲われる。そうして、にぎやかしく話していた真行寺は、何かに憑かれたように口を閉ざした。
「ギイ、それ、どんなイメージになったんだい?」
3人しかいない部屋の中で、声をひそめた託生が訊いてきた。
「いつもの生徒会長然とした三洲が、セーラー服姿に変わっただけで、あえて言うなら才女ってイメージか。さして変わらないな」
映った通りに告げる俺を、今度は目を見開いた託生が見つめる。当初の目的とは違うが、こういうくるくると表情を変える託生の顔も、俺のメモリーに増えていく。
「さすが、ギイ先輩っすね」
口を開いた真行寺の声は、感嘆で重々しくなっていた。
「他にどんな三洲をイメージしろって、お前たちは言うんだ」
「ぼくも真行寺くんも、イメージできなかったんだよ」
ため息をつく真行寺が、同意して頷く。
「まるで、なんかに妨害されてるみたいに、首から上と下が繋がんなかったんす」
気味が悪いな、それは、スプラッタームービーじゃないか。あれ、俺が仲間に入ってから、ふたりの顔から笑みがどんどん消えてないか?俺は、託生の『笑顔』を見に来たんだぞ。
「その、上と下が繋がらないイメージから、ふたりは笑ってたのか?」
思いだして、このまま無益な時間を費やすつもりのない俺は、単刀直入に言った。
「と、とんでもないっす」
「そんなわけないだろ!」
意気投合したふたりから、たちまちサラウンドに、反論が返る。と、同時に、室内に春の日差しも吹き込んできた。
「なら、ふたりで楽しんでないで、俺にも教えろよ」
噛みつかんばかりに詰め寄っていた託生の肩を掴み、訴えた。
「は、放して、教えるから放してくれよ」
「話したら、放してやる」
しかめた顔の託生をじっと見つめていたら、
「たいして面白い話でもないよ、それでもいい?」
困ったようにつぶやく。
「面白いか面白くないかは、俺が決める」
告げる俺に、
「ぼくたち、どうして三洲くんのイメージができないか、ふたりで相談してたんだよ」
「そうしたら、俺たちふたりとも、アラタさんの生徒会長の顔じゃなく、いつも俺たちが見ている顔からイメージしようとしてたっす」
「それの、どこがおかしいんだ?」
セーラー服なんてありふれた衣装、誰しも着るだろう。首を傾げた俺を、不服な声で託生が襲う。
「ほらね、だから面白くないって言っただろッ」
「だから、なぜイメージできないのか、ちゃんと説明しろよ」
「そもそも、俺たちにアラタさんがセーラー服を着る印象がないっすもん、ギイ先輩。あの笑顔や、あの視線に合う服が、見つかんないっしょ。女兄弟もいないし、どう考えてもいつもの服着たアラタさんになっちゃって」
真行寺の説明を肯定するように、託生も目を伏せる。そのふたりの様子に、そこはかとなく腹の底から笑いが込み上げてきた。
「お、お前たち・・・それは、三洲に対してあんまり-」
耐えながら話す俺の機先を制するように、ドアがカチャリと静かな音を立てた。ノックもなくこの部屋のドアを開ける学生など、残るはひとり。託生と真行寺が同時に振り向いた時、俺はベッドから立ち上がっていた。
「なんだ、3人揃って。ずいぶんと部屋が狭苦しいな。」
三洲が言い終える前に、託生の腕を掴み立ち上がらせる。
「おかえり、三洲。託生を誘いに来たら、ちょうど真行寺も来ていたんだ。俺たちは出掛けるから、ゆっくりしてくれ」
言いながら、ドアへ向かう。笑いを耐えていたことは、おくびにも出さなかったはずだ。うろんな目で見送る横をすり抜け、託生と共に廊下へ出て後ろ手にドアを閉めた。隣からは、ほーっと息を吐く音が聞こえた。
「三洲くん、疑ってたよね?ギイの言ったこと、信じてないよね、きっと。真行寺くん、また何か言われないかい?」
「さあな。託生、学生ホールのカフェオレおごってやるよ。あそこの、好きだもんな託生は」
足を止めずに廊下を進む俺に着いてくる託生は、時々後ろを振り返っている。
きっと真行寺なら大丈夫だろ、もし三洲から何か言われても、今の真行寺から見える三洲はセーラー服を着ているんだから、すべて睦言に変換されるさ。