差し迫った期末試験を前にして、いつも毅然としている章三の様子が違う。まさか、章三がナンパ?
「なわけないだろう。もし、あいつがナンパしてたら、寮内を逆立ちして歩いてやるよ」
ギイはそう言って笑う。窓から射し込む弱い陽の光が、何倍にも膨れあがって見えるほど、朗らかに笑う。
でも、ぼくは章三がフラれてしょんぼりする姿を、何度も見たんだ。ここは山の中腹に立つ全寮制男子校、祠堂学院高等学校。もちろん、構内も寮内も、そして先生も、司書と食堂や売店のおばさんを除けば男しかいない。
「託生や俺をナンパして来ないのは、せめてもの救いだよな。それは、章三なりの配慮だって言うのか?」
あまり嬉しくない配慮だけど、ナンパされても、それがぼくではなくギイだったとしても、たしかに困る。
「じゃあ、赤池くんは、どうして落ち込むんだろ」
首を傾げたぼくを、ネクタイを結ぶ手を止めたギイは、すげない瞳で見下ろした。
「託生は、章三にナンパされたいのか?俺というものがありながら、落ち込む章三を放っておけないほど、心配なのか?」
「ギイは、心配じゃないのかい?相棒だろ」
「相棒だから、だよ。もし章三が本当に落ち込むほどのことなら、俺を差し置いて他のやつに声をかけたりしないだろ。託生は、そういう場合に俺には話さないのか?」
ああ、ギイは章三のことを信頼しているんだ。ぼくは、どうするだろう。今ならギイに、ギイに話せないことでも利久に話すかもしれない。
「そうだね。本当に困った時には、きっとギイに相談にくるよね。ギイは、それまで待つつもりなんだね」
ふわり、ふわりと笑ったギイは長い腕にぼくを包み
「よくできました」
耳元でささやいた。

朝食前の寮の廊下は、全校生徒が一度に溢れたかのようなラッシュを引き起こす。あちこちのドアが開いては閉じ、まるでもぐらたたきゲームのように目まぐるしく人波が動く。その先に、群衆から頭ひとつ飛び抜けた人影が、まっすぐ前を向いて歩いていた。ぼくが隣を歩くギイの袖を引くと、
「ひとりだな」
ポツリとつぶやいたギイは、もう章三に気づいていた。
列をなす食堂のカウンターでも章三に声をかける学生はなく、いくら規律正しい風紀委員長とはいえ心根の優しい彼が敬遠されるなどありえない。しかし、章三が座ったテーブルは、潮が引くように食べ終えた学生が次々と立ち上がる。ぼくたちが朝食の載ったトレーを受け取ったときには、彼の座る6人がけのテーブルが、章三ただひとりになっていた。
「ラッキーだな託生、立て込む時間に俺たち余裕で座れるぞ」
「おはよう、赤池くん」
目の前にトレーを置いたぼくたちを、章三はスープの入ったカップ持ったままチラリと見上げる。
「朝っぱらから、見せつけにきたのか」
「ごあいさつだな、章三。こんな寒い日に、日だまりに照らされた一等席を、独り占めするつもりかよ。託生が風邪でもひいたら、」
「わかったから、早く座って食えよ、ギイ。ギイが立ったまま喋れば、殊更目立つだろう。葉山、ダンナの椅子を引いてやるか?」
「俺が、託生の椅子を、引いてもいいかな?」
言いながら、ギイは自分で椅子を引いて座った。やはり、章三は、あまり機嫌がよろしくないようだ。
「章三、明日の日曜は、出かけるんだろ?」
「まだ、決めてないよ。ギイたちは、どうするんだ?」
「俺は、出かけてもいいけど」
言葉を止めたギイは、フワフワに温められたロールパンを割いたぼくを横目で見る。
「期末試験前だよ、ふたりとも」
割いた切り口からふわりと上る温もりが、たちまち温度を下げていく。それをパクリと口に放りこんで、ぼくは食べることに専念する。
「だそうだ。付き合えなくて、悪いな」
「誘ってないだろう。どうするか訊いたんだよ」
「それで、章三は、街に行くのか?明日は、映画が半額になるんだろ。観たい映画があるんじゃないのか?」
「1人で行って帰って。冷蔵庫のようなニューヨークの冬に慣れたギイなら、おつなものだろうな」
「映画を観たいヤツなんて、ここにはいくらでもいるだろう。山奥で、麓まで下りなきゃたいした娯楽もないんだ、週末くらい出掛けたい人間には困らないはずだろ。しかも、学生には嬉しいサービスデーが日曜とあっては」
「さっき葉山が言っただろ。高校2年の、エスカレーター校でありながら内部進学を希望する生徒がほぼいない祠堂の学生にとって、受験前のこの時期に、試験を差し置いて映画を観るために片道1時間も使っているバカは、そうそういないんだ」
片道1時間、往復で2時間、映画観賞の時間とバス待ちの時間を加えたら。しかも校内はケータイ禁止で、ネットからの予約は不可能。入館したら即、映画が観賞できる約束はない。そうして、映画を観るだけで1日がほぼ潰されてしまう。祠堂の学生にとっての映画鑑賞は、遊興まさにそのものだ。
「試験勉強なら、待ち時間にだってできるぞ」
ギイ、それはギイだからだよ。揺れるバスの中で、1時間ずっと本を見続けたり、文字を書いたりできる人は、そうそういないんだ。
「なあ、葉山、ダンナを1日借りられそうか?」
スクランブルエッグの横に添えられたトマトと、プチの名前通りほんのひとくちで口の中に収まりそうなトマトと格闘しようとしていたぼくは、突然名前を呼ばれて顔をあげた。その脇から伸びてきた手が、指先が器用にふたつをいっぺんに挟んで空中をよぎった。
「だ、ダメに決まってるだろ。ぼくひとりで試験勉強をしろって、赤池くんはそう言うのかい?」
黙って頷くギイの皿にも、ぼくの皿からも、熟れた輝きを放つ赤い宝石は消えていた。
「じゃあ、やっぱり、1人で行くしかないか」
最後に残しておいたのだろうプチトマトを口に放りこんだ章三は、諦めたように告げる。その目の前で、ゴクリと口の中のものを飲み下したギイが
「待てよ、章三。いっそのこと、明日は寮内で映画鑑賞会にしないか?そうすれば、その時間だけみんな集められるんだし」
つと、サプライズパーティーの開催を提案する。
「学校側の許可は、どうするんだよ。それに今から企画しても、全校生徒に行き渡らなきゃ不公平だぞ」
そこは、風紀委員長として譲らないんだね、赤池くん。章三のための企画だから、麓まで行く間で2本同時上映だって余裕でできる時間だけど。
「それは、三洲に任せるとして。俺たちは、寮生が観たい映画のリストアップだろう。タイトルは章三に任せるから、アンケート用紙を作れよ。各クラスには、級長を通して俺が配るから。授業終了後にそれを回収して、3人で集計しようぜ。これならば、一斉に全校生に案内できるだろ?」
さすが、ギイ。上映タイトルの発表と参加不参加も夕飯時にアンケートしちゃえば、夜には明日の参加人数も確定する。きっと、聞きつけた有志がたくさん集って前夜祭が始まるだろう。明日の昼頃には、会場セッティングまで終わってしまいそうだ。
「了解!」
テーブルの上でハイタッチを交わす章三の顔は、晴れやかな笑顔をしていた。


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滝口さんに不幸があり、私はまだ認めたくなくて、シリーズの映画を未だに観られずにいます。滝口さんを追っかけるほどのファンではなく、この赤池章三役をリアルに再現できる唯一の俳優さんとして感銘を受けておりました。滝口さんほど、原作に忠実な章三を演じられる方はないと思い、私が大好きなキャラクターでもあり、身長も滝口さんと章三はほぼ同じで。この世にもういないとは思いたくなくて。悲しみ方は人それぞれで、分かちあえないものも時には遭遇するのでしょうね。ここで、滝口さんのご冥福をお祈りさせていただきます。
いつか、タクミくんシリーズの映画を観て、あの笑顔にもう一度触れたいと思います。