真行寺がバスルームから出たことは、三洲にも知れたはずだった。しかし、ベッドの上で動く様子はない。迷った真行寺はキッチンで足を止め、特に飲みたくもないミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出した。それをグラスに注ぎ、足音を殺してテーブルに置いた。
投げ出された三洲のブリーフケースを床から拾い本棚に立てかけた時、背後で布のすれ合う音がした。起き上がった三洲が、黙ってグラスを取り上げていた。その顔からは、深い疲れがにじみ出ていた。真行寺は声をかけていいものか悩んでいると
「休みに、なった」
取り上げたグラスに口もつけず、三洲が言った。
三洲が唐突に話すことは珍しくない。珍しくはないが、脈絡もなく真行寺に話しかけたことなど、初めてだった。どう答えていいものかわからない真行寺は、黙って見つめるばかり。そんな真行寺へ、チラリと視線を向けた三洲は
「花火大会の日。シフトが、変わった」
億劫そうに捕捉した。ところが、真行寺には、三洲がなぜこんなにダメージを受けているのか、まるでわからない。
「そう、なんすか」
しぶしぶ、当たり障りのない返事をした。そしてまた、ふたりの間には、空白を告げるような時間がおりてくる。
気づまりな部屋の中で特にすることもない真行寺は、時折、窺うように三洲を見つめる。ベッドに腰かけたままグラスを両手で包んだ三洲は、そこから一向に動こうともしない。何度見返しても、三洲の周りだけ時間が止められ、微動だにしない。
ただ機嫌の悪い三洲ならば、真行寺は何度も見ていた。真行寺には普通に話しかけただけのつもりでも、うるさいと言って三洲の顰蹙を買うこともある。初めて会った時ですら、そうであった。Fグループ選り抜きの粋を尽くし万全の空調を誇るギイの邸で暑苦しいと言ったのは、前にも後にも三洲ひとりである。でも今の三洲はそうした気難しさではなく、忸怩たる思いを抱え傷ついているようにも、真行寺からは見えている。触れると、砂上の楼閣のように脆く崩れて失くなりそうで、真行寺は近寄ることも出来ずにいた。
その三洲が、ベッドからするりとすべり落ちる。それを見ていた真行寺は、叫びそうになった。
だが、事実は違った。
床へ滑りおりた三洲はグラスを座卓へ戻し、ポカンと口の開いた真行寺を無表情で見た。冷めたというよりも生気すら感じさせない三洲の目と視線が合い、紛れもなく動いている三洲を見出した真行寺はホッとして、座卓を挟んだ斜向かいに座った。座って、ようやく許しが出たように口を開いた。
「アラタさん、シフト変わっちゃ、まずかったっすか?」
真行寺は、せめて理由だけでも知りたいと考えていた。
「こんなことは、前代未聞だ。まさか・・・」
問うような三洲の視線を投げられ目を丸くした真行寺は、まさか自分に疑惑の目が向くとは思わず急き立てられるように首を振る。
「だよな。ならば、あいつしかいないか」
花火大会であいつとなれば、それがギイであることは真行寺にも察せられた。しかし、ギイからそうした連絡は来ていない。何も聞かされていない真行寺には、この言葉を肯定することも否定することもできず、三洲がさらに話し出すことを願った。ひとつ大きなため息を吐いた三洲は、
「あいつは、どれほどエキセントリックな花火大会を、開催するつもりなんだ」
頭を抱えるように腕をあげる。
よもやギイが、そんなに風変わりな花火を仕掛けるとは、真行寺には考えられない。たがしかし、浴衣が届けられたと思っていたら、そこには和服としか表現しようのない着物が入っていた。そして、仕事があるのでキャンセルした三洲のシフトが、予兆もなく変更された。
これはまさしく、三洲の推測通り、衝撃的な花火が打ち上げられるのだろうか。託生もプランニングに参加したのだろうか。ここへきて、ふたりの婚約が花火で発表されるとか?真行寺の夢想は、無限に膨らんでいく。いささか場違いではあるが、心中穏やかではない三洲には本当に申し訳ないが、真行寺の心はワクワクとトキメキで弾みだしていた。