もしもアラタさんが浦島太郎だったら その2 その3

夏の宵は遅い。エレベーターを降りた真行寺が玄関ドアを開けると、夏特有のよどんだ熱気と湿度がドッと流れ出て、額からはまた汗が伝う。海岸沿いにあるギイの邸宅で暮らしていた頃は、陽射しが強くても潮風が吹き抜ければ汗を浚い、邸の中にはいつも誰かがいて空調が止まることなどなく、日中にアスファルトがさんざん溜め込んだ地熱を吐き出すこの暑さを忘れていられた。
日本の夏。いや、待て、あっちが本来の日本の夏で、これこそが今を脅かす異常気象じゃね?まあ、どっちでもいいか、この暑さが変わるわけじゃないし。
混みあったサウナのような室内で窓を開け、家中の換気扇のスイッチを入れた真行寺は、ジーンズのポケットから二つ折りになった黄色い紙を取り出し、座卓の上に投げ落とした。片隅に置かれたカラーボックスから着替えを取り出し、そのままバスルームに入っていく。

初夏に、三洲と思わぬ出会いをした真行寺は、ギイに命じられ彼をここへ送ってきた。その際には、ギイから預かった書類一式を見た三洲にうろんな目で見上げられ、追い返されそうな気配もあったが、真行寺に引き下がるつもりは毛頭なかった。そして、どうにか居着いたものの、三洲はここへ日々帰宅しては来ない。1DKのこじんまりした単身用マンションの一室には、シングルベッドと反対側の壁の3分の1はクローゼット、残りの半分には書棚、真ん中にある座卓の半分近くはパソコンが占拠している。今時テレビもない部屋があるのだろうか、と真行寺が不審に思うにほどに殺風景な部屋だった。まさに眠るために用意された部屋、そういう感じがした。それでも、この部屋の残りスペースに真行寺がおさまるはずはなく、一時はおまえが自宅として借りろとまで言われた。それを、三洲へ家賃を支払うことでようよう折り合いをつけ、今に至っている。もちろん三洲のものが最初からあるので、真行寺は残りのスペースに住み込んで。

サッパリしたからだがエアコンの冷気でようやく冷めた頃、インターフォンが寛ぐ真行寺を呼び出した。
「きた、きた」
待ちかねたように玄関を開け受け取ったものは、ギイから届いた小包だった。しかも宛名には、真行寺だけではなく三洲の名前も書かれている。
「俺の名前が書いてあるんだから、開けてもいいんだよね?」
一人きりの部屋の中、返事があるはずはない。真行寺は小包を裏返し、ゆっくりとセロテープをはがす。丁寧に包装紙をほどき始めた。座卓半分の大きさもある包みを持ち上げた時、中身と包装紙の間からスルリと一通の封筒が滑り出た。窓越しに傾いていく光の中に、“真行寺兼光様”と書かれたギイの直筆が浮かび上がる。そこには、真行寺の名前だけがあった。
「ほよ、俺だ!」
託生や章三とは、今もラインで連絡を取り合っている。しかし手紙とは、ギイらしいというか。どこからどう見ても日本人離れしたスケールのギイだが、存外こうしたことにはマメな男で、小さなメッセージカードのたぐいから時候の挨拶まで、ネット全盛期の今でも欠かすことなく自分でしたためる。
ギイから手紙を見つけ、開きかけた包装紙はいったん置いておいて、真行寺は封筒を先にあけた。
懐かしギイの文字、緩んだ真行寺の顔が、つとプレゼントの小包を見た。そして再び手紙に戻る。その目が、次第にすがめられていくのは、陰りつつある陽射しのせいばかりではなかった。
うーむ、手紙を読み終え小さく唸った真行寺は、途中まで開いた包装紙を、今度は届いた時のように元に戻す。そしてベッドへゴロリと寝転び、天井を見上げケータイを手探りで取り寄せる。
「アラタさんの名前があるってことは、あの箱はふたりが揃ってから開けるんだよな、きっと。今夜は、帰ってくるのか?あの人」
週に半分も帰宅しない三洲。まだ病院にはいるだろうが、今夜は両親と住む自宅へ帰るつもりかもしれない。今から連絡すれば、こっちへ向かってくれるだろうか。半信半疑で、ひとまずラインを送る。頭の中では、冷蔵庫にあるものを思い出していた。もし三洲が帰ってきたら、夕飯は二人分。また、あの暑さの中を、買い物に出なければならない。
三洲と一緒に食べられるのだから、暑くても不満はないだろう、真行寺。
どこからか思念が飛び込む暇もなく、手の中でケータイが鳴った。
ーーーまた、竜宮城から玉手箱でも、届いたのか?
なんでわかったんだろう、真行寺は思いついたままを返信に書いた。そして、それきり、ケータイはウンともスンとも言わなくなった。