入学式を終え新生活も板に付いた真行寺の部屋は、ようやく人が住むに相応しい家らしくなっていた。入居した日には積み上がっていた段ボールも綺麗さっぱり片付き、真新しいテキストが並ぶ棚には、卒業祝いと称して親に連れていかれた旅行先の写真も飾られている。

出掛ける間際まで渋っていたが、親と過ごす時間よりも恋人と過ごしたいと、聞き分けの悪い子供のように駄々を捏ねていた。しかし出掛けてしまえば楽しかったのだろう、どの写真の真行寺も満面の笑みを浮かべ、あどけなさを残している。からだがいくらデカくなったところで、まだ高校を卒業したばかりの18歳。しかも、高校では不仲な両親の側で辛い思いをしたくないばかりに、寮生活を選んだ。本心では、父親にも母親にも、思いきり甘えたかったのだろう。

「アラタさん、なに見入ってんすか? 写真なんか見なくたって、ここにホンモノがいるっしょ。」

ほら、と目の前にその顔を差し出してきた。

「はいはい、そのニヤけた面、なんとかならないものかね。」

「げぇ、俺が映ってるんすから、同じ顔っしょ。」

「なんでだろうねえ。あの写真の方が、断然可愛いげがあると思わないか?」

「マジっすか。この顔より、写真映りがいいってこと?」

「ショップで現像すると、バランスを考慮して修正してくれる、って言うだろ?」

「俺、バランスが悪いってことっすか?」

何年も竹刀を握り続けている節くれ立った手を当て、あちこち触れてはその顔を確かめている。

ーーーまったく。

「ところで、買いたいものは、もう揃ったのか?」

「一応ね。でも、アラタさんにデートしよって言われたら、いつでも出掛けられるっすよ。」

「デート? おまえが買い物をしたいって言うから、俺が付き合ってやったんだろうが。」

「でも、一緒にランチ食べたりカフェでお茶して、れっきとしたデートっしょ。」

「ほう、ならおまえは金輪際、駒澤やこれから知り合う友達とランチやお茶をしない、そう言うんだな。」

「や、それは…………。アラタさんが妬くならしないっすけど。」

「ーーーありえない。」

「だって、俺が好きなのは、アラタさんだけっしょ。そのアラタさんが、やきもきするようなことをしないのが、男っす。」

なんだか、すごく疲れる会話だな。目眩がしそうだ。

「べつに、友達と、ランチやお茶くらいしていいから。それと、俺に同じことを強要するなよ。」

眇めた目を向けると、唇を真一文字に結んだ真行寺が、上目遣いに見上げている。と、そこへ見計らったように、あいつの携帯が着信した。


※※※※※


どうしてアラタさんは、ああなんだ。卒業旅行だって、どうせなら親と行くより、俺はアラタさんと行く方が楽しいに決まってる。それなのにアラタさんときたら、親孝行して来いなんて言って、あっさり俺を追い出した。行けば行ったで、誰と一緒だろうが其処の景色や食べ物は同じなんだからそれなりに過ごせるけど、相手次第で俺の気持ちは変わるじゃん。想い人とシェアするって、特別なんだよ。

俺のこの気持ち、いったいいつになれば、報われるんだ?

「おっ真行寺、残業してくれるのか。そうかそうか、時給は出ないぞ。」

肩越しに、同じ制服を着た先輩がニヤリと笑う。視線を上げて見えた時計の針は、終業時間を5分も過ぎていた。

「おわ、もうこんな時間じゃん。俺、帰りますです。」

「まあ、そう言うなって。せっかく出て来たんだ、俺、後1時間だから付き合えよ。」

「ダメダメダメ、急ぐんす。」

「さては、彼女でも待たせてるのか? 今からデート?」

ギクッ、

「おお、まさかの図星!」

「やや、違うっす。やだな、デートなら、休日返上でバイトなんかしないっしょ。」

笑ってあしらいながら、控室に入るのももどかしく制服のボタンをはずす。タイムカードを押して制服をバックに放り込み、まだ温もりが残る陽射しの中へ駆け出した。

まったく、今からデートじゃなくて、デートの途中だったんだよ。いい雰囲気のところへ、そっちが勝手に電話して来たんじゃねーか。いつか馬に蹴られて死んでろ。

発車の合図ギリギリで乗り込んだ電車の中、いまさら時間は戻らないが、込み上げる悪態も止まらない。知恵熱だかなんだか季節外れの風邪を引いたバイトの代役で、突然呼び出したのはそっちじゃん。ついでに、電話口で渋り続けた俺に微笑み掛ける、つれない恋人の顔まで思い出してしまった。

「待っててやるから、行って来いよ。明日は我が身だぞ。」

大人の笑みで小首を傾けたあの人は、俺と居たいなんて思わないんだろう。いつだって追いかけてるのは俺で、その姿を垣間見るだけでもトキメいて、笑顔が有料だと言われても置いてけぼりにされても、好きな気持ちは変わらなかった。想いに想い続けて、何度断られても告白して、念願叶ってやっと恋人に昇格してからも、まだずっと追いかけてるような気がする。

ダメだ、考えるな。どうせ、ロクなことを思いつかないんだから。

滑るようにプラットフォームへ横付けされたドアが開く。人混みを掻き分け、改札口を抜けてから走って走って走って、子供の頃みたいに最短コースを走って、植え込みを飛び越え、公園を突っ切り、似たような外観の家が並ぶ中を駆け抜ける。アラタさんが待っている俺の部屋まで、新記録を達成してやる。傾きかけた太陽と同じ、淡いオレンジ色に染まった建物が見えてきた。もう少し、もう少しで想い人に会える。ポケットの中でチェーンに繋がれたキーを探り出し、鍵を開ければ………。

ガーン!

ない、玄関にあるはずの靴がない。まさか、俺、また意地悪されてる?片隅に置いたボックスの中も覗いてみるが、ない。ていうか、部屋には人の気配すらない。

ガックシ。待ってるって、言ったじゃん。

へなへなとからだの力が抜け、肩から雪崩落ちたバッグが、床の上でドサリと音を立てた。ぽっかり穴が開いた胸の中を嘲笑うように、吹いた風が街路樹をざわつかせる。走り抜けたからだを撫でる風に、ふるりと震えたのはどこだろう。

無人の部屋は、昨日と何も変わらないはずなのに。そこに居るべき人が居ないだけで、コンクリートに囲まれた牢獄のような冷たさが、ひたひたと押し寄せて来る。期待を裏切ることに長けたアラタさんを恨む気にもなれず、だけど信じた自分を罵ることも出来ない。ひたすら浮かばれない気持ちに拍車が掛かり、うつろな感覚だけが大きくなっていく。

「そんなところに突っ立ってられたら、通行人の邪魔だぞ。」

つと、馴染んだ声が駐輪場の方から聞こえた。

「あれ? アラタさん?」

「なに? 幽霊にでも会ったような顔して。」

「帰ったんじゃ………。」

そこには紛れもなく、バイトに行くまでと同じ恰好をしたアラタさんが立っていた。

「ーーーこれ、食べたいって言ってただろ。」

ふわりと微笑んで、紙袋を掲げる。こんな時でも、その微笑みにドキリとする俺は、もうすでにかなりこの人にヤラレテいる。紙袋に描かれた横文字は、ここに住み始めてからずっと気になっていた洋菓子店のロゴ。美味そうなショーケースの中身に劣らぬメルヘンチックな造りの店ゆえ、男一人で自分が食べるケーキを買うには、いささか敷居が高くて躊躇っていた店だ。

「それ、買いに?」

「調べ物してて。急いだんだけど、サプライズの予定が狂ったな。」

「俺のため?」

「他に誰がいるんだ。ともかく入れよ。話なら、中でいいだろう。」

「そ、そうっすね。」

これでも充分サプライズだよ。また、置いてかれたのかと思ったじゃん。でも、背後に感じる穏やかなぬくもりは、もう片想いじゃないと告げている。

わたわたとバッグを拾い上げ、一人しか入れない玄関先をそそくさと明け渡す。前を通ったついでにケトルも火にかけ、心機一転、ブレイクタイムと洒落込もう。

「その中、見てもいいっすか?」

「お子様だな。」

言いながら、袋から出したボックスを開けてくれる。宝石箱の如し、並べられた数は5つ。旬のイチゴたっぷりシャルロットにカラフルなフルーツタルト、チョコとシンプルなベイクド&レアチーズケーキ。目移りするほど、どれも見るからに美味そう。

「好きなだけ選んでいいから。」

箱の中身に目を奪われている隙に、楽しげな声と共にカップを取り出す音がした。

「わーダメダメダメ、俺、やるっすから座ってて。」

アラタさんの手の中にあるインスタントの瓶と、買ったばかりのお揃いのマグを取り上げ、キッチンから追い出す。その剣幕に驚いたのか、いつもの冷ややかさを消した横顔が、訝しげに俺を見上げる。

「えっと……、」

続ける言葉に詰まった俺をクスリと笑い、意地の悪い目で一瞥して部屋へ戻っていく。またもや子供だと思われたかな。まあ、いっか、これを飲めばその認識も変わるっしょ。持ち出したサーバーとドリッパーのセット。インスタントなんか比べものにならないほど、こっちの方が味わい深い。デリシャスなケーキには、ビターなコーヒーが持ってこいっしょ。フィルターに粉を入れ、真ん中にお湯を注ぐ。濃厚な香りが立ち始め、食欲が刺激される。滴る半透明の雫が黒い波紋を描いていく。さっきまでの俺を映すようなサーバーの中の黒い渦、ふわりと残る柔らかな後味まで同じだ。

テーブルの上でサーバーからマグへ注いだ。アラタさんは、ひとつだけ皿にケーキをのせると、後のボックスを俺の方へ押しやった。

「やるよ。」

「残り全部? いいんすか?」

「たかがケーキにオーバーな。」

「“たかがケーキ”じゃないっす。アラタさんが俺のために、買ってきてくれたんすから。」

“俺のために”、なんて心地好い響きなんだ。俺も皿にひとつケーキを移しながら、無意識で言葉に力を込めていた。

「素直ないい子には、ご褒美がつきものだろ。」

「むむう、これ飲んだら、もうそんなこと言わせないっす。」

「いい子を、卒業するつもり?」

「ケーキは食うっすけどね。」

突き刺したイチゴを放り込む。口の中に、豊潤な味が立ち込める。やっぱり、旬の味は格別。アラタさんのピックアップは抜群だ。

「で、いつの間に、そんなものを買ったんだ?」

マグを口に運ぶアラタさんが、サーバーへチラリと視線を向けた。

「アラタさん家じゃ、いつもお母さんがいて、恋人らしいことなんてさせてくれないっしょ。」

「母さんは、俺たちのこと、知らないんだぞ。」

「わかってるっす。だから、うちにいる時だけでも、コミュニケーションを図ろうかと。」

「おまえ、何か勘違いしてない?」

ギクッ、まさか野沢さんから何か聞いてる、ーーーわけないよな。

「してないっす。リラックスする時くらい、インスタントから解放されたいっしょ。」

「それなら、コーヒーメーカーで煎れた方が、簡単で手っ取り早いだろう。」

「ノンノン。ひと息つくアラタさんのことを考えながらドリップする、このひと手間が愛っす。」

「ふうん。でも、スイッチを押すだけなら、」

言って、伸びてきた長い指に顎を掴まれた。間延びした返事とはあべこべの、口角を上げるミステリアスな微笑みが、どアップに迫る。

「待つ間、こうすることもーーーー」

言葉尻が、口の中で溶けていく。深く重ねられた唇から、ほろ苦い味が流れ込んできた。

明日は、なんとしても、秋葉原へ行かねばなるまい。



※※※※※


さて、無事に真行寺は戻ってきていますでしょうか(笑)詳細は3月の『花散る夜にきみを想えば』をご覧ください。


GWは皆様いかがお過ごしですか?

今年は、旧知の友人とゆっくり会う時間がありました。20年以上、各々の仕事や家庭の事情でこのような機会がなかったもので、このところ私に気忙しいことが続いていたこともあり、懐かしくも穏やかなひとときを過ごすことが出来ました。

今回は似たような空気感を持つ人ばかりだったもので、命の洗濯と申しましょうか、心が洗われるように感じた時間になりました。人間には、こういう時間って、本当に大切ですね。

残り半分になりましたが、皆様も良いGWを。