それは先週のことだった。
「アラタさんってなんであんなに屈折してんだろ。」
「またなんかあったのか?」
電話の向こうで駒澤が言った。
「特にはないけど、俺いつも思ってる。駒澤んとこはいいよな。」
「野沢さん、かなり大雑把だけどな。」
「でも素直じゃん。優しいし。」
「記念日とか自分の誕生日すら覚えていなくても優しいのなら。」
「アラタさんなんか敢えて忘れたフリだぜ。意地が悪いだろ。」
「でも覚えててくれるんだろ。」
「そうだけどさあ。どうせなら素直に祝う方が楽しいじゃん。」
「素直も時と場合によっては厄介だぞ。」
駒澤は溜め息を吐きながら呟く。
「なに?なんかあったの?」
「ああ。最近、俺が泊まると必ず飲むんだ。」
「二人で飲むならいいじゃん。」
俺たちは隣同士に住んでいても、隣同士だからこそ特に用事がなければすぐに自宅へ帰ることが出来る。それに引き替え、最初から泊まりと決まっていれば、余計な詮索や配慮も要らない。
「んー、でもな。」
「なんだよ。」
「凝ってる酒があってさ。飲みやすいから、飲みすぎて後が大変なんだ。」
「二日酔いとか?」
「二日酔いならまだいい。酔って絡むから、どうにもならなくて困るんだ。」
なるほど。俺ならそんな風に絡まれてみたいけど。
「ああ、そっちね。俺はある意味羨ましい。」
「三洲さん、飲まないのか?」
「飲むよ。理性的に。」
うん、とても理性的で自分をよく知るアラタさんらしい飲み方で。野沢さんみたいに甘えて絡んでくれたなら、俺の悩みも解消出来て一石二鳥だよ。いいよな駒澤、頭痛のタネがひとつ減って。
「真行寺とは正反対だな。」
「うるせえ。でも俺、酔って迷惑掛けたりしないだろ。」
「まあな。」
「はあ、俺も迷惑掛けられたい。」
どちらからともなく零れる溜息。そんな迷惑なら俺はいつでも引き受ける。だが世の中上手く行かないもので、駒澤に舞い降りた不運は俺の幸運。降りる先を間違えてるだろ。酔えばアラタさんの意地悪もなくなりそうだし、こっちも一石二鳥だ。
「駒澤、野沢さんが飲んでるその酒、なに?」
「まさか三洲さんに?」
「ダメかな?」
「わからない。責任も持てない。」
不安そうな声で告げる。でもここまで聞いたら、知りたいじゃないか。
「それでもいいよ。駒澤から聞いたって言わないから、教えて。」
「でも売ってないぞ。自家製だから。」
「梅酒とか?でも梅酒でそんなに酔うのか?」
「梅酒じゃねえよ。似たようなもんだけど。」
「自家製ってどうやって作んの?野沢さんが作るのなら、俺にも作れるよな?」
あまりいい顔をしない駒澤をどうにか説き伏せ、その酒の作り方を聞き出した。それが先週末。
俺は今日、買い物ついでにその材料を仕入れてきた。帰宅して買い物袋もそのままに材料だけを取り出し、早々に仕込む。アラタさんに見つかれば、厄介どころではなくなるだろうから、来る前に終わらせてしまいたい。
「これでよし。」
「なにが?」
「わわ、びっくりした。アラタさん、猫みたいな忍び足で入って来ないでよ。」
たった今閉めたばかりの冷蔵庫のドアを掴んで、俺はしゃがんだまま叫んだ。倒れかけた弾みで開きそうになったドアを力一杯押し戻す。
「お前の耳が遠いんだろう。」
「俺の方が若いっす。」
「さてはまた、何かに熱中していたな。今度は何を思いついたんだか。」
「人聞きが悪いなあ、もう。」
からかうアラタさんは呆れたように俺を見下ろす。
まさか、アラタさんを酔わせる計画を遂行しているなんて、口が裂けても言えない。その為に下拵えしていたなんて知られたら、どんな目に合わされるかわからない。
見下ろす視線を避けるように、俺は平静を装って荷物を片付け始めた。
目聡い恋人は、それをじっと見つめていた。どうせなら何もない時に見つめて欲しい、それも甘やかな顔で。だがしかし今、この状況下で俺に振り返る勇気があろうはずはない。しかもアラタさんは僅かな変化を見逃してくれない。
「真行寺、何を隠してる。」
隙を突いて話しかけてくる。
「なんすか、もう。さっきから人聞きの悪いことばっか言って。」
忙しいふりをして凌ぐが、疚しさを隠そうとすればするほど俺は素っ気なくなる。
それをアラタさんは冷ややかな目つきで睨んでいた。しかし今、悟られては困る。なので俺は懸命にシラを切る。
「まあいい。寝言には充分気をつけるんだな。」
にやりと笑った鬼の恋人は、さらにプレッシャーを掛ける。
はあ、俺もずいぶんオトナになったもんだ。以前ならあんな目をして睨まれたら蛇と蛙。たちどころに露見していたであろうプラン。
でもここで、俺は負けるわけにいかない。なんてったってこれは、ミッションインポッシブルにも劣らない重要な任務。密かに遂行しなくては夢が逃げてしまう。この察しのいいアラタさんを出し抜こうというのだ。二週間の我慢だ、耐えろ、俺。
数日後、あの日の成り行きを心配した駒澤からメールが届いた。
「だからさあ、俺もバレないように必死で戦ってんの。」
「そんなにムキになることでもないだろう。」
部活が終わって折り返し電話を掛けた俺に、駒澤は呆れていた。
そりゃ駒澤にはいつものことかもしれない。でも俺にとっては、またとないチャンスなんだ。慎重にもなろうってもの。
「だってあのアラタさんだよ。野沢さんなら笑って許してくれたとしてもさあ。」
「それなら尚更やめればいいだろう。」
「えー、だってこんなチャンスみすみす逃したくないじゃん。」
「チャンスって。それは向こうからやって来た時にいうことだろ。」
「俺は呼び込むタイプなの。」
「俺は知らないぞ。そんなに危険だとわかっていながら、敢えてチャレンジするお前を尊敬するよ。」
「まあどちらになっても、結果は駒澤に報告するからさ。俺の無事と計画の成功を祈っててくれ。」
「ああ、わかった。じゃあ、まだ仕事中だから切るな。」
壮大な構想を錬る俺に、駒澤はまさに打ってつけの賛辞を寄越す。
こうなれば必ず成功させてみせる
俺の意気込みは更に更に深くなった。
そして待ちに待った日がやってきた。二週間がこんなに長く感じたのは初めてだ。
ずっと野菜室の最奥で佇んでいた瓶を取り出す。傾けてみても瓶の中は色も変わらず透明なままで、少し俺を不安にさせた。
味見ついでに少しだけ口に含んでみる。それは駒澤が話していた通りさっぱりとした口当たりで、予想外に飲みやすいウォッカへと変貌を遂げていた。
これなら大丈夫だろう。なにが?すべてが。アラタさん、気に入ってくれるといいなあ。そうすれば明日は休みだし………。
キッチンで一人妄想に取り憑かれかけた俺を、開くドアの音が現実に引き戻した。
「まただらしない顔をして、いったいお前は何を企んでいるんだ。」
「ああ、おかえりなさいです。」
「それなに?」
部屋に入ったアラタさんはうんざりしたような第一声を上げたが、俺の手元にあるものを見て小首を傾げる。
「リキュール。俺が作ったんす。」
「ふうん。で、今夜はそれを飲もうと言うんだな。」
「うん。とりあえず飯食ってからね。」
「はいはい。なら、さっさと食ってしまおう。」
取り立てて追及を受けることもなく、アラタさんはすんなりとテーブルに着いた。気味が悪いほど素直である。このまま素直で居続けて欲しいものだが、そうするとアラタさんではなくなるようで恋する男心は複雑だ。ただ、今はこの後の予定に心奪われている俺。それを深く考えている余裕はなかった。
「真行寺、飲むならついでにこれも片付けろ。」
まだ夕飯も終わっていないテーブルの上に紙袋が置かれた。中にはローマ字が印刷されたナッツやチョコレートの類が取り混ぜて入っていた。
そのひとつひとつのパッケージ、裏に書かれた文字を読んでみる。しかし数個で断念した。それを見たアラタさんの顔が密かに綻ぶ。
「どうしたんすか、こんなに。それも違う国のものばかり。」
「くれた人がバラバラだから。俺も全部は読めないから中に入っているものの保証はない。知りたければ、父さんなら読めるかも知れないが。」
「やや、食えるもんなんしょ。そこまで拘りないっすから俺。大丈夫っす。」
どうせ腹の中に入っちゃえばどこの国のものでも同じだろう。俺はアラタさんほど繊細には出来ていない。
「ならいいが。お子様のお菓子好きは各国共通だな。」
「むむう、またそうやってすぐに俺を子供扱いする。」
「現に子供だからしょうがないだろう。」
「子供は酒なんか飲まないっす。」
「はいはい。で、今日はそのご自慢のお手製を飲ませてくれるんだろう?」
「うん。ちょっと待ってて。」
本日の主役を取りに俺はテーブルを離れた。ついでにもらったお菓子も皿にあける。本当はライトも落としてCDもかけてとやりたいことは山ほどある。が、あまり演出に凝るとまた疑われるであろうことは、長年の付き合いの中で学んだ。計画は最後まで慎重に、察しのいいアラタさんには鉄則だ。
夜も更け、静かな部屋の中で何をするでなくグラスを傾ける。これが我が家ではなく夜景が綺麗なバーラウンジならもっと決まるんだろうなどと、甘い思考が過ぎる。
でも好きな人と二人、他愛もない話に華を咲かせ飲む酒は一段と旨くて、その笑顔さえ極上のつまみになる。
「真行寺、これなに?」
グラスを掲げ、小さく首を傾げたアラタさんが訊ねる。
「モスコミュールっす。」
「ふうん。さっぱりしてるな。」
「でしょ!? アラタさん気に入った?」
「ああ。」
桜色の艶やかな唇から、期待に違わぬ返事が零れた。それだけで俺の気分は最高に盛り上がる。
「だが、もう止めとくよ。なんだか体が温かくなってきた。」
「マジっすか。」
「少し酔ったかな。」
―――あれっぽっちで?
もし本当なら嬉しい誤算だ。と、俺が思えたのは束の間。アラタさんは、ふふんと高見から見下ろすように笑った。
「ななななんすか、その笑い。」
「俺が気づかないとでも思ったのか?」
そう言うとさっと立ち上がり迷いなく目的地を目指す。その足取りに酔った形跡はない。そして冷蔵庫の前で立ち止まり、中からあの瓶を取り出した。
「これ。」
「が、どうかしたっすか?」
「真行寺、こうすると生姜がウォッカ特有のアルコール臭を消すだろ。」
にっこりと、敢えてにっこりと笑い、アラタさんは話を続ける。
「しかも、ウォッカの中へ溶け出した生姜のエキスで、体内の血液循環が良くなるんだ。知らなかったのか?」
まるで、白衣を着て講義でもしているように告げた。最初からすべてを見通していたかのようなその口調。それを前にして愕然と言葉を失う俺に
「悪だくみもたいがいにしろ、たわけ。」
素っ気なく言い放つ恋人は、傍らのキッチンボードからグラスを取り出す。自らグラスの中に氷とウォッカを注ぎ、スライスされた生姜を一枚乗せた。そこへお気に入りのサンペレグリノを加える。
微かに泡立つグラスの中で、崩れた氷がカランと音を立てる。新しいグラスを手に戻ったアラタさんはゆっくりと俺の隣に腰を下ろした。おっかなびっくり内心怯む俺に
「だが、せっかくだから付き合ってやるよ。」
そう言って、ふわりと微笑みかける。
うたかたに組まれたミッションの行方。
夜の帷の向こう側、忽然と現れた気紛れな魔女。今宵もその不思議な魅力が俺を惑わせる。そして、またもや主導権を奪われるのであろう予感に、俺の悩みは尽きることがない。