Holy Is His NameYou're About To ClimbThe Passover Lamb

The Gartan Mother's LullabyThe Wisdom of the Moon

キョロキョロ2023年までの新型コロナ感染死10万人超びっくり2023年は3万8080人 (厚労省6月5日)

パンダ1419応永の外寇 李氏朝鮮軍1万7千人が対馬を急襲 住民114人斬首 家2千戸を焼き尽くす

前期倭寇は元寇(朝鮮キム軍)に対する防衛の民兵 後期倭寇は主に明の武装商船による海賊団

Hil dig, Frelser og ForsonerAlle mine kilder skal være hos digO Word of God

PapirsklipAll Praise to Thee, My God, This Night    →進む

 

 

「古代の民権派極左  

秦氏 魏書辰韓伝に「朝鮮半島の南東部では古くからの亡命者が移住しており辰韓と呼ばれた」と記述

後漢時代に大陸の東漢人(東莞)が半島の中央(帯方郡)を侵略 弾圧を受けた「民権派の縄文人と秦氏」は南部の新羅や加羅に逃れた

前漢代に漢族による儒教支配と民間搾取が中国全土に及び「秦の民権派や職人」が台湾経由で日本に渡り縄文人と連携する またベトナムとの海上交易が活発化し仏教徒も渡来した 平和な南九州の縄文人は東漢人の侵略と残虐性を強く認識し北九州の民権派に警戒を呼びかけたが半島の東漢人の策略と侵略により制圧される 北九州では奴隷化された縄文人が環濠集落という強制労働所に押し込まれ搾取された(北九州では大量の受傷人骨を発掘)160年頃に北九州で儒教支配を確立した東漢族は東莞連合国を形成し「漢朝に大量の奴隷と技術者を貢いだ」 漢の衰退と北九州の反乱により民権派が台頭し強制労働所を解放(概ね200年以降はの影響下となり東莞連合の儒教支配が弱まる) だが晋朝の時代に朝鮮漢族が大量に流入し再び極左化 倭国の儒教支配を目論む晋は東莞連合の九州制覇を後押しする(倭国大乱)

 半島の南東部から秦族の一部と縄文人が出雲にわたり高層の出雲大社(杵築大社)を建設 この高度な建築物の目的は東漢族の来襲に備える事であり縄文氏族の連携(大分と出雲)と防衛力の強化を図っていく 観光と物流の古墳にも軍事的な通信施設が備わり大型化した 古墳の改造や大規模化は近畿地方にも及び東征軍の侵攻を牽制する 3世紀末に極左化した邪馬台国は東莞連合と連携しクナ国を襲う 電撃的な侵攻を受けた南九州の縄文クナ王は宮崎に退避し四国の縄文氏族に支援を要請した そして大分に防衛線を張り水軍を創設するが東征軍の山陰侵攻は予想外の事態となる 戦闘に不慣れな山陰縄文軍では「半島と東莞連合国で展開する東征軍」による西日本の侵略虐殺は阻止できなかった 東征軍の拠点は伊都国から小倉方面に移行※1 邪馬台国の南方軍は戦域を拡大しクナ隼人(鹿児島)に進攻するが補給が途絶え始め苦戦となる クナ連合軍との瀬戸内海戦を回避したい東征軍は山陰地方から進軍し山陽方面へのゲリラ戦を展開したと推測できるが複雑な中国山地に阻まれ物資輸送も困難となる 吉備播磨の縄文氏族と山陰から逃れた秦族は堺市に集い大規模な連合軍を編成し東征軍の近畿侵略に備えた この東国の縄文兵力を加えたヤマト連合軍は総勢20万人規模に膨らみ九州クナ瀬戸内艦隊に物資を支援し制海権と沿岸域を確保する クナ軍の司令長官は中国山地のクナ陸軍を撤退させ邪馬台国への進軍を命じる 東征軍の山陰方面軍は次第に補給を絶たれ略奪と虐殺の嵐は鳥取から敦賀方面にまで吹き荒れ地獄絵図と化した

この泥沼化した西日本の攻防戦は長期に及び邪馬台国の軍備は手薄となっていた 鹿児島と大分から進軍したクナ軍は熊本を奪還し奴隷は解放されたが半島からの軍事干渉は九州北部に残り全面解放には至らなかった 劣勢の東征軍は西暦350年頃に講和を求め武装解除に応じるが極左には約束という概念はない このヤマト連合王権の基礎となる民権連合の首長はクナ国王と考えられる ヤマト国は新羅と正式に同盟し任那と加羅の民間通商の安全を確保する 391年に半島南部の縄文軍(倭軍)が百済南方軍の侵略を撃退し国境を確定

 だが西暦390年頃からヤマト連合王権に東漢族が巧みに浸透し始め左傾化(414普朝に朝貢する左翼のヤマト王は百済に援軍)東漢族は再び半島南部を脅かし九州北岸域の残党も呼応した 西暦420年頃?に民権派ヤマト王※2は九州北岸域の掃討作戦をクナ長官(磐井氏?)に要請し援軍を約束 ヤマト王は半島南部で民権派の韓人や縄文人が東漢族に度々襲われるという報告を深刻に受止めた 東征軍との戦いで古墳の軍事要塞化が効果を上げたので半島の加羅にも導入し東莞族の侵略に備える ヤマト国による半島の安定化が南宋朝に評価され任那の独立承認と安東将軍の称号を得た 古事記序文には歴代天皇の政治には派手なものと地味なものがあり既に衰えている道徳を正すためには古代王の行いを明らかにしなければならないとある ヤマト連合国では縄文系民権派朝鮮系儒教派の政権交代が繰り返されていた 派手好き小泉氏の先祖は朝鮮系ペテン族カルトの工作員で北九州人の奴隷化を推進したとする伝説があるかもしれない 地味というのは縄文人の優先を意味する

※1動画 邪馬台連合2代目の女王(オオミカミ)の墓は伊都国の東方

※2民権派5王時代の最後のワカタケル大王は関東の縄文氏族をまとめ朝貢を停止 半島では百済を牽制し6ヶ国の民間交易を推進した 西暦480年頃から高句麗と百済は連携し新羅の南部攻略を強化 百済儒教派も任那に乱入し縄文人と韓人を弾圧 加羅に退避した新羅の民権派も高句麗と百済の挟み撃ちで苦境に立たされた

※527磐井の反抗 背景として任那や加羅の民権主義を危惧した百済の東莞族儒教派が左派ヤマト王権に援軍を要請し伽耶諸国に圧力を加えようとした 左傾化ヤマト王権は半島へ近江氏3万の軍を進軍させたが磐井氏は九州北岸で近江軍を阻んだ 賄賂を受け取った大伴金村による任那を百済に売ろうとする企みを磐井氏は察知していた(賄賂発覚539年) 縄文系の民間交易を重視する磐井氏に激怒したヤマト王は翌年に大軍を率い磐井氏を討伐 磐井氏が急速に衰退したことにより九州の左傾化が進み百済の軍事干渉も再び半島南部に波及 新羅も高句麗の度重なる浸透工作で漢族儒教派が大勢を占めるようになり半島の民権派は衰退の一途を辿ることになる

  

キョロキョロ半島の前方後円墳 2020の発掘で真実が明らかとなり調査打ち切りびっくり蓋が閉められた

キョロキョロ朝鮮系の美化ドラマ ヘチ王座への道 極左メディアで絶賛放映中びっくり受信料を吸込む

 

秦氏と縄文人は信教の自由を守る立場であり権威主義的な儒教支配を目論む普や百済と対立することになる 後に序列化した官位制を聖徳太子が採用したとされるが百済系の藤原一族による歴史捏造の可能性が高い 奈良時代になると仏教にも儒教的な戒律や序列が浸透し権威化 朝廷の身分序列も複雑となり公家衆や公金依存者が肥大化した 平安時代になると溢れた公金依存者が官位と言う権威を振りかざして各地に寄生した 地方の民間人や土地は搾取され民間経済は疲弊する 半島経由の疫病も流行し縄文人の日本は衰退期を迎える 鎌倉期に入ると民権派が台頭し民間技術も発展した 生産力の向上で庶民にも1日3食が広く浸透する 関東の秦野市に逃れた秦氏は壮大な石垣の技術を後北条氏に伝えたとされ関東平野の利水事業にも貢献した だが官尊民卑の儒教支配が揺らいだ日本に半島の東漢人が再び攻撃(元寇)を仕掛けた 対馬では多くの民間人が東漢人に虐殺されたが藤原一族の近衛家は黙認 共に民権主義の台頭を制止する動きである

 

※1274元寇の前は鎌倉全盛 極左の侵略により幕府は衰退 キム軍が対馬と博多人を虐殺えーん記事削除

縄文大臣は蘇我氏 葛城氏 平群氏 朝鮮系邪馬台連合の大連は物部氏 中臣氏 大伴氏

縄文系は紀氏 熊野氏など地名が多く 朝鮮系は安倍氏 坂上氏(丹波支配)など役職が絡む

※卑弥呼とは日見子または火見子 古代の子は姫など尊称を表す 卑弥呼は晋の編纂者が著している 邪馬台国の政所は阿蘇山を仰ぐ熊本であり蘇我氏は鹿児島寄りのクナ国に属したと考えられる 卑弥呼の祈祷は阿蘇山噴火の大規模噴煙による農作物の甚大な被害を回避したいという願いから受け継がれた また九州は梅雨の長雨や台風が多く水不足となりにくいが備蓄の食糧や貴重品は洪水で流されやすい 九州の縄文人は古墳の地中倉庫を精巧な石組み技術で固め浸水や害虫を防いだと考えられ噴火時の土石流にも対応した 馬の飼育に適した阿蘇山の広大な草原では馬乳チーズ(蘇)の生産が行われ縄文ロードのチベット族も関わっていた 邪馬台国の台は阿蘇山を支える雄大な台地であり熊本住民の国の名としてふさわしい クナ国を裏切った麻蘇氏は筑豊で盗んだクズ鉄を東征軍に貢いでいた 後に麻生の名を授かり鉄の採掘権を得たという

※524百済は梁の影響を受け仏教擁護に転換 新羅との敵対関係は緩和し儒教派の権勢は一時的に衰える 漢朝の儒教支配を引きずる高句麗の影響力を排除した百済の政策転換をヤマト王権の民権派は歓迎した 高句麗では古くから礼記の朝服授与の儀式が下級官人にも普及 また積石古墳の先祖崇拝も盛大に行われ漢族の儒者や貴族の権威を誇示して儒教支配の正当性を内外に宣伝した

は儀礼と権威を排除した天台538~の法華経を根本とする悟りの仏教を保護 聖徳太子もブッタの仏教を保護

先祖崇拝の彼岸の墓参りは漢朝から伝来(暦で民衆を抑圧する儒教支配の一例)

彼岸とは先祖の儒者を宮廷内で崇拝する荘厳な行事で民間人にも普及 劉邦は儒教の権威化を民間に強制

※古墳の始まりは4世紀頃からとされるが後付の石棺 鉄器 装飾品などで年代を測定 実際の築造は遥かに古く遅くても紀元前である 石室内は夏涼しく冬は温かいことから宿やシェルターとして高く貸し出すことができる 規模が大きい古墳では貴重な装飾品を展示するなど美術館のような活用法や貸倉庫として稼ぐことも可能だ 古墳の鍵穴の様な形の理由は癒しの曲線美と安定感であり震度6程度の揺れでも崩れない構造は縄文人の緻密な計算と独創性によるものである 熊本にはピラミッドのような高度な石組みの地下通路もある 世界最古の円型遺跡も地震に強い構造で珍しい動物の骨や彫刻を展示した人類最古の博物館びっくり動画

※神社の原型は礼記の喪国の社で土地に執着する政の場 鳥居も中国の牌坊華表を真似たもので朝鮮にも儒教の紅門がある 紅門は儒教支配の李氏朝鮮で広く普及し東莞人を称えた また紅兵や左翼民もシナ共産党を称賛し民権派を虐殺している 地震の多い日本の鳥居は重い装飾物を省き簡素である 儒教の影響を受ける前の慎み深い縄文の日本人は自然崇拝であり神聖な森林や洞窟は誰の所有物でもなく広く開放され清潔に保たれた 鳥居や儀礼的な要素のない信仰の自由は縄文人の特徴であり他人の作法も尊重した 阿蘇家の祖先はクナ国の氏族だが邪馬台連合の支配を受けることもあった

 

キョロキョロ神話によると中立的な卑弥呼は縄文系の出雲オオクニヌシノミコトと連携 だが身内の襲撃による暗殺の可能性が高い卑弥呼の死により半島の東漢人が邪馬台国の中枢を独占した(極左化) 邪馬台連合の権限は伊都国に集中し軍備の増強が図られる 大陸の魏が倒された後の儒教色の濃い普朝も東征軍強化と西日本征伐の号令を発し山陰への進軍を後押しする 邪馬台連合の女王オオミカミと側近はオオクニ主に出雲国を譲るよう迫るが断わられた これに激怒した女王は東征軍に出雲住民の虐殺を命じたびっくり 住民とオオクニ主の怨霊を恐れた女王は周りの怨念を封印する複数の鳥居を出雲大社に増築したとされる 卑弥呼の邪馬台国を赤に染めた女王は縄文人の古墳を先祖崇拝の墳墓に改造し奴隷を酷使させた 藤原系の記紀では邪馬台国の東遷とされるが「正確には邪馬台連合オオミカミの東征でありクナ王の東遷」と考えられる 瀬戸際という言葉通りにクナ縄文軍は山陽方面の沿岸域を固め東征軍の侵略を防いだ 大和朝廷で大勢を占めた朝鮮系儒教派の記紀編纂者は倭人伝の邪馬台国(卑弥呼)を認知していたが邪馬台連合の侵略虐殺(東征)の事実を封殺 日本書紀註釈に景初3年6月倭国の女王は使いを送り魏への朝貢を申し出て都洛陽に至ったとある 大噴火の様子と縄文人の営みを描いた高天原は阿蘇山の高原と一致している 熊本よりの麓で台地は割れ地下水が湧き上がり稲作を可能にした 海底大噴火では噴煙からの溶岩(矛)が海に突き刺さり島ができた 岩戸伝説は後の話で朝鮮系漢族の邪馬台連合に追われた縄文王が洞窟に避難したとある 日本は火が本に誕生した

 

儒教派が蘇我入鹿を殺したあとに蝦夷が自宅を焼き自害したとされる記述は胡散臭い また縄文倭人の蝦夷は卑しい民間人とする東漢族のプロパガンダも成り立つ 東征軍の虐殺を示す文書が蝦夷の手元に残されていることを諜報員(蝦夷の親族)から知らされた儒教派は蝦夷の邸宅を襲撃し証拠文書と家族を焼き尽くしたと考えられる 太子一族の丸焼きも儒教派の仕業で後に名を変えた藤原一族が歴史を書き換えた 鎌足と同様に高句麗や百済の使者もヤマト王への献上を屈辱的と捉え入鹿の斬殺に加担 この見せしめの645極左テロは効果的で民権派は大いに萎縮した  百済では642年に反対勢力の氏族と家族も巻き込む惨殺(民権狩り)が行われていた 同年の高句麗も大臣が王を殺害し実権を握る 共に随の影響力が低下したことによる儒教派漢族の台頭を表している 馬子と聖徳太子が編纂した大王記と国記も蝦夷宅から焼失し徹底した口封じと民権狩りは数十年にも及んだ 

笑い泣き縄文系を抹殺した百済系儒教派※記事びっくり聖徳太子の死因も工作員が半島から持込んだウイルス

 

キョロキョロ[餓鬼とガキ大将の違い]儒者が言う餓鬼とは卑しい民権派の死霊を指す差別用語 ガキ大将とは極左の指導を受けた暴力団長であり民権派の子供を監視する役割を担う 過剰蓄財があれば没収され儒教支配に反抗する子供を殴り抑圧した 朝鮮では裏道(下層民)を制する暴力団で現代に例えるとシナ共産党の青少年部や国家文化局の諜報部員に相当

中国の全体主義的な洗脳教育や韓国の自殺率の高さは儒教支配の抑圧と関連している 教員を先生などと呼ばせ深々とお辞儀させる風習も子供を洗脳する有効な手段となる 極左メディアは教員に従順な児童の姿と共同体思想を「民権派の公的電波」で垂れ流し儒教支配の正当性を脳機能が低下傾向となる年寄りに見せつけ左翼政権の票に結び付けている

※前方後円墳の分布は茨城444千葉720など関東に多く奈良239大阪182など西ほど少ない 3世紀中頃から半島や邪馬台国の東征軍に備える為に見晴台(公園)や地中倉庫として利用された小山が改造され大規模化 ピラミッドや始皇帝のレジャーランドを上回る規模の大仙陵古墳は秦氏が関わったとされる ヤマト王権に東莞族の勢力が増したことから先祖崇拝の影響を受け墳墓となる

※征夷大将軍(東夷征伐)の官位も漢族の中華思想にある卑しい民権派の抹殺を目的とした官職である 朝廷は民権派の反発を避けるために上品(まろやか)に平定してほしいとの願いから麻呂という名を将軍に授けたが東征伐による北関東の民間犠牲者は膨大となり死霊退散の鳥居などが各地に建てられた 初代は大伴弟マロ 2代の坂上田村マロは京の坂上(東山)に広大な土地を保有する有力貴族で現在の清水寺を建立 藤原一族も民権派の死霊退散を目的に仏教を利用した 田村麻呂の祖先は後漢の阿智王で東漢氏の祖 先祖は帯方郡から渡来し邪馬台連合の山陰侵略で武功を挙げ丹波の一部を支配 坂上氏はヤマト連合の朝鮮派閥を支えた有力者で武力を背景に民権派を抑圧しヤマト連合の左傾化を推進 極左の組織力と浸透力は筋金入りの強さとなり民権派を排除したヤマト朝廷ではペテン族の中臣氏が朝鮮式の官位制を導入している 最先端の人工知能を駆使しても極左の巧みな策略を解き明かすのは不可能であり政治に疎いヤマト連合の民権派は次第に懐柔され極左に染まっていく 大和国今来郡では漢族の人口が9割を占めびっくり儒教派の政治勢力は地方にも波及した また征夷大将軍としての東征伐の記録はスカスカで不自然な美談が加えられるなど麻呂のファンを増やす計略となる 民権派の織田信長は征夷大将軍という野蛮な官位を強く拒み頼朝も征夷ではなく大将軍を望んだ事が後の史料で発覚した

 

室町時代になると民権派を監視する公方職を全国に配置して朝廷の権威も利用 幕府と朝廷のお墨付きを得た有力な公方は傲慢な守護大名となり中央政権と公方による二重搾取に民衆は苦しんだ 室町末期に至ると斎藤道三や北条早雲などの自由民権派が台頭し極左の搾取体制が揺らいでいく 公家や公方は秘密裏に連携し朝廷財政の困窮による貧乏生活の回避を思案した 民権派を陥れる信長包囲網は長期的に錬られた極左の策略であり明智光秀も途中から加担した 麒麟が来るの極左の創作ドラマ光秀を美化する演出が際立っていた 光秀が道三に仕えたとする証拠はないがスパイとして民権派を監視した可能性は残る 光秀が丹波で善政を行ったとする当時の確たる史料はなく儒教色が濃くなる1630年以降の創作※2

信長が本願寺の僧兵と戦った理由は本願寺と三好が手を組んで京都や河内の治安を乱したからだ 極左の近衛前久は秘密裏に本願寺と三好に癒着し信長と幕府の権勢を抑えようとした(後の義昭は前久と癒着)  本願寺や浄土真宗の過激派は1400年代から加賀や三河など全国各地の公方や守護代と癒着し特権を享受する 1500年代に勢力は急拡大し土地や金品など膨大な資産を得たが税を誤魔化し政官界にバラ撒いた また寺院や信者を武装化し既得権益を守る為に家康など新興の民権派を攻撃している そもそも教祖が煩悩に満ちた犯罪者であり悟りを開く仏教とは無縁の人物である 教団は極左的な側面もあり伊勢長島の門徒による発狂突撃では罪のない住民も多数殺されていた にも関わらず信長は降伏後の門徒を解放させ信教の自由を保障する また石山本願寺も顕如の退去処分のみで存続させている これに対し光秀は比叡山の焼き討ちで非武装の民間人を殺害した 光秀は平和を実現した信長を殺したあと安土城に急行し守旧派に不利となる文物を焼いて証拠を隠滅

また公家の使者と面会後の6月8日に朝廷に参内し安土で奪った金品銀子500枚を有力公家に献上した 

※2明智堤は光秀とは関係なく後の時代に明智の名が付けられる 年貢の減免などは丹波だけではなく他の地方でも信長の意向に沿って行われた ※個人記事