1898アジア主義の興亜会東邦協会の一部を吸収合併させ「東亜同文会を設立」
アジア主義と国粋社会主義の「左右の左翼を融合」し日本左翼の重層感を誇示した
1900南京同文書院大学を設立 近衛篤麿は「国費依存の康 有為」らと親交を結ぶ
1901上海東亜同文書院を設立 会長は近衛文麿の父にあたる近衛篤麿
公家や華族の優越性を意識した篤麿は中国でもアジア主義を基本とする外交を推進
篤麿らは「日本とシナの優越性同一協和を宣伝」し白色人種の完全排除を目指した
wiki...1900年に南京同文書院(後の東亜同文書院、その後身愛知大学)を設立するなど対中政治・文化活動の推進を図っていく。また、清朝内で強い権力を持つ地方長官の劉坤一両江総督)や張之洞湖広総督)などにも独自に接近、日清の連携をもちかけた...
※東京の同文書院は中国人留学生(国費依存の官費生)を受け入れる教育機関
「道徳は儒教的」な同文書院は国の補助金を受けた 1926-1931の会長は近衛文麿 
儒教社会主義には国を一つにまとめる要素があり「近年の中国共産党も利用
※江戸時代は和の社会主義→「強制道徳は儒教思想が基本社会主義が好きな理由
※「侵略の国際共産主義」と「和の社会主義(国粋)」は民権派排除の官権ファシズム
中共連携の民権打倒は近衛政権 平沼の中共支援は近衛に比べ手薄なため内閣は短命
東條内閣は軍と官を一体化させた強力な軍制官権であり「勢力圏拡大の野望で自滅」した
しかし国家社会主義の理想国家を樹立した中国共産党の偉業は彼らの新たな希望となる
近衛らの左翼は帝政ロシアの満州進出に抵抗したがロシア革命以降は親ソとなる

内田良平(黒龍会時代) 1898宮崎滔天を通じて孫文と親交を結び革命運動を援助
1905黄 興らと中国同盟会設立 
1923「排日移民法」に反対(反米煽動) 正しくは移民数に上限を設定する「1924移民法
大正デモクラシーには否定的で1925に加藤首相暗殺未遂事件の容疑者となるが無罪
紅卍字会日本会長となり「日満蒙連邦建設」「日支共存」「皇謨翼賛運動」など推進
南京事件赤十字社に匹敵する特殊な地位が紅卍字会に与えられた
宮崎 滔天 革命家および浪曲師ぶーぶー 1891頃から中国の大アジア主義運動に加わる
1917湖南省で講演 この講演に出席した毛沢東は宮崎の大アジア主義に感銘を受けた
同年の毛沢東は体育教育の重要性を「体育の研究」で著す(嘉納の柔道や理念も高く評価)
長男の宮崎龍介1937に近衛の密使として国民党打倒の南進を推進 戦後は社会党へ

1926中国の国民党内に共産党組織が乱立(赤の分裂闘争) 各地で武装蜂起 
1927上海侵略

内閣書記官長↓鳩山一郎1930帝国議会の軍縮条約批准に関して濱口内閣を口撃
1943-45軽井沢で保養ぶーぶー 1954-鳩山ブーム(吉田の日米協調を反米・親ソに転換)

1929濱口内閣 立憲民政党 1930ロンドン海軍軍縮条約締結  
1930/11濱口愛国社の社員に銃撃され1931死亡(鳩山は治療中の濱口も口撃)
1931隠れ左翼の愛国社は大日本生産党に参加  大日本生産党は黒竜会の大阪支部長と「愛国社の内田良平(大アジア主義)らの賛同で結成 主張は亡国資本主義の打倒と生産者立国の国家統制 1932に帝国陸軍労働組合などの加入により勢力を拡大した  内田らは1932/5.15の犬養首相暗殺事件も称賛している
5.15事件の指導者は大アジア主義の藤井 斉 下は中国共産党などを援護する左翼の計略
wiki...国家組織の改造を志す藤井は大川から革命計画を聞かされ勇躍していたという。その計画は満州支那人を利用して日本人を数名殺害させ、日中間の対立を起こすことで国家を混乱させ、それに乗じ議会を襲撃し革命を成し遂げるというものであった...
上の計略は1937日中開戦時の「華北左翼連合の策略」として引き継がれる
世界恐慌後に左翼テロが活発化 機に乗じた中共はスパイ攻勢を日本に仕掛けた
陸軍の上層部を薄い赤色から染めて「淡い赤の工作員を送り込む」策略です
主に日本共産党員が上層部に働きかけ下準備を整える
我が同胞はソ連諜報部が分析した日本軍の短絡的な幼児性を熟知していた
赤い組織でも「勢いがあれば仲良くしたい」という主体性の無さですね
国民もアホだから左翼が仕掛ける早起きとラジオ体操で軍隊式の鍛錬に励んだ
共産党軍の凶暴性が日本陸軍に植え付けられ左翼日本軍へと変質した
近衛の放送協会は元々の赤だから「独占利権による洗脳宣伝も中共を援護」した

陸海軍に中国官費生の浸透が本格化 洗脳工作により中共の擁護派が台頭(国民党打倒)
1931若槻内閣 生糸などの輸出低迷が長引き地方経済は困窮
1931/9満州事変 政府は不拡大方針だが朝鮮軍は勝手に出兵したため予算を認めた
重要産業統制法(同業者間の統制協定を保護助成)

左翼関東軍が満州で決起(共産党は躍動)  国民党は南北の左翼勢力に挟まれる
1930/12蔣介石は「荒れ狂う共産党軍」の追討を指令 だがゲリラ戦術に翻弄され苦戦
1931/7国民党軍は兵力30万人に増強し共産党軍包囲作戦を進めた矢先の9月に満州事変
蔣介石は事変の対処に迫られ共産党軍追討を中止 共産党軍は左翼関東軍の謀略で救われた
1931/11毛沢東の瑞金政府樹立(中華ソビエト)1932/3満州国建国(日中左翼の合作) 
1932/4江西省の紅軍が国民党政府軍を猛襲ぶーぶー国民党2個師団全滅 江西省の70%が赤化
1932/5廬山会議にて共産党軍の追討を再確認 国民党と共産党の戦いが激化し始めた

1932犬養内閣立憲政友会 1932/5.15事件により政党内閣は崩壊
左翼の暴力攻勢と洗脳による労働者の発狂で「民業の生産力が萎縮」し始めた
軍官左翼は満州への大規模な移民計画(民間の人減らしと奴隷化)を経済界に提案 
満州で国家資本の形成を計り「効率的な民間搾取で政官界の楽園国家を築こうとした」
この頃の中国共産党は好調だった 官費生の工作員も日本左翼の攻勢を喜んだ
公金依存の左翼民が増え始めたので中国の民権派住民も搾取の対象となった

斎藤内閣から終戦まで挙国一致(衆議員・貴族・官・軍による集団指導制)
1932斎藤内閣 満州国を承認 国際連盟脱退 国民党打倒の軍拡路線へ
斎藤は反共に転じた張作霖を裏切り「華北左翼連合との連携と支援を強化」した 
※帝人事件では鳩山一郎文部大臣が追求され辞職 帝人社長や大蔵官僚らは起訴された
だが国粋社会主義の平沼毅一郎(司法官僚)の働きで全員無罪となる
(平沼の盟友である近衛も2.26事件で逮捕された社会主義者らの釈放を要求した)
中国華北の左翼を援護したい斎藤は初の五相会議を開き「民権打倒の計画」を指令

国民党軍100万と共産党軍10万人が対峙
1933/1 中共を支援したい左翼関東軍は熱河省に侵攻し国民党軍を牽制した 
国民党は再び対処に迫られ共産党軍は救われる形となる 

1934岡田内閣(民政党) 左翼テロに屈した岡田は
総理除く大臣数16  左右の大臣は古代中国の官位制 大正の高橋内閣の大臣数10
軍の圧力に屈して華北進出 12/海軍軍縮条約破棄 政友会に対抗し衆議院解散 
1936/2.20選挙で民政党が第一党に躍進民権の流行を危惧した国粋左翼が暴れた
1936/2.26事件岡田首相は奇跡的に無傷 だが民権派は萎縮し一部は左翼に流れる
国粋社会主義(右)の北一輝など2.26事件の煽動者に死刑判決
皇道派と呼ばれる陸軍幹部らは排除され統制派(左)の発言力が増していく
左右の左翼は衰退する中国共産党を救うために「民政党の軍縮政策を打ち砕いた」
※2.26事件 歩兵大一連隊には後の反米煽動映画を仕掛けた本多 猪四郎がいた
ゴジラ映画を盛り上げた「じゃじゃじゃん...」の音響はNHKの交響楽団

1934劣勢に転じた中国共産党は西進(長征)  ※民報アジア>西安事件
1935/5華北事変 左翼日本は国民党の攻勢に対処するため華北の支配権を強める
左翼の洗脳工作で民衆の反日機運が高まり「国共合作による抗日」へと世論を誘導した
1935-1936中国共産党は兵力21万から7万人へと弱体化(国民党の攻勢)
1936/12.11西安事件 左翼に寝返った張学良の反乱(ソ連を含む左翼連合の秘密連携)
左翼日本軍は国民党の矛先を「瀕死寸前の中共から華北に誘導」するための撹乱策略を実行
1937/7北支那事変(盧溝橋)に至る(西北の共産党支配域と逃げ道を確保)
当時のソ連中央は「中共が大アジア主義に染まり始めた」ことを見抜けなかった

1936廣田内閣 1935からの中共の衰退を憂いた廣田五相会議で打開を計る
経済統制など戦時体制を準備 軍備拡張など廣田の急激な臨戦政策は陸軍統制派の華北工作員らによって半ば強制的に推し進められた そして現役の関東軍武官を内閣に招き国民党打倒の戦略が練られる  思想犯保護観察法 「国体の本義」発行
「文化勲章の制定」では国に讃えられた功労者の姿を国民に魅せつけた
陸軍大臣寺内寿一1937/8北支那軍司令官(日中開戦)  ※1941南方軍総司令官
1936/8ベルリンオリンピック(NHKラジオは国家社会主義国の偉業を大称賛)
田は大隈重信に爆弾を投げた来島 恒喜(玄洋社)のために立派な墓碑を寄贈
また、博多の玄洋社墓地にも墓があるが勝海舟によって谷中霊園にも墓が建てられた
清朝の科挙官権制に強い憧れを抱いていた勝海舟など大アジア主義の亡霊が再び蘇った
軍と神の戦争ではなく「清朝左翼の溢れた官費生」と軍が結合した革命戦ですね
特に1943以降から左翼の煽り洗脳が過激となり特攻などの右翼戦術を印象づける
左翼は日本の中国侵略に関しても「右翼による仕業」だと米国を騙すことができた
「特攻による戦果は乏しく」逆にアメリカを強気にさせ沖縄は地獄絵図となります
日中の民権派とアメリカに大打撃を加えて中国共産党を有利に導いた革命殲滅です
民間殲滅を誘導した「官費生たちの卓越した策略」毛主席人民の誇りである

1937林内閣 満州国への財政出動を強化

1937/2 中国の国民党大会にて中国共産党の根絶と中国の経済自由化を決議
※この時点でも国民党内の赤の潜伏が多いので薄い黄色の表示
日本の左翼は我が共産党の危機を救うためにスピード感のある支援を実行した
左翼の秘密連携と日本軍の急襲が功を奏し国民党内部は再び赤色に染まります

近衛内閣から大政翼賛会(左右合同の公事結社)官と軍は結合大衆は洗脳奴隷化
1937/6近衛内閣左翼を称える党を準備 近衛は翼賛会の初代総裁
陸相は左翼満州の板垣  親ソ海相米内は8月の上海侵攻を強く主張 南進も推進
1937/7.07北支那事変(日中開戦) 8~中シナ軍は上海から猛進撃 12月南京占領
9/臨時資金調整法 輸出入等臨時措置法 電力国家管理法  12/企画院の設立...
1938/4国家総動員法 11東亜新秩序の声明 12満州国承認を条件に汪兆銘と連携
想定外の頑強な抵抗を示した国民党軍に苛立った近衛は2年以内の撤兵条件を黙殺
隠れ左翼の汪兆銘は近衛に同情し「国民党を分断弱体化させる秘密連携」を継続
●近衛政権の参加者 大臣数は21に膨れ上がる (下は左翼人の一例)
①廣田弘毅外務大臣 国民党を陥れるプロパガンダを陸軍潜伏の工作員らと推進
西園寺公一中国の共産主義運動に関心を持つ「1941ゾルゲ事件に連座して逮捕」
近衛内閣では汪兆銘工作に参画 1940スターリンとヒトラーに面会 1947参議員
1957中国共産党に所属し大臣クラス(月500元)の待遇を受けた(毛沢東は月600元) ぶーぶー
西園寺はNHKテレビあの戦争は俺達がやったんだ」と誇らしく語っていた
...共産主義者の活動は、樣々に化ける忍者のやうに變幻自在なのである。其れを容易にしてゐるのが、祕密黨員とか僞裝轉嚮と云ふ仕組み...
昭和49年の放送だな やばいと思って注意したので軽はずみな報道はなくなった
風見章 内閣書記官長 7.11官商財界人や朝日などの報道陣を官邸に招き北シナ軍3個師団の増派を決定 7.11日は北シナの現地で和平が決定されたが瀕死状態の中国共産党を救うために無理のある兵力増強を速断した  8月の上海侵攻も決断が早く国民党軍を挟み撃ちにする無謀な民権派殲滅」の決意と覚悟を左翼民に示した
7.26~31陸軍が要求していないのに派兵予算を1千万から4億円へと大増額
風見>1909朝日記者 1923毎日の主筆となり労働者や農民の側に立つ論陣を張る
1951公職追放の解除 1952衆議員 1955左派社会党に入党 日ソ協会副会長 
1957訪中して周恩来と会談(台湾の国民党政権に反対) 1961死去(衆議院本会議で黙祷)
※筑波大名誉教授の中川は「風見は親ソ一辺倒の過激な共産主義者」と評した
偽装右翼右翼の仮面を被った左翼 戦後は堂々と中国共産党との友好を深めた

1939平沼内閣白人排除の大アジア主義が優勢 1939/5ノモンハン事件 
近衛の意志を引き継ぎ「中国国民党の内部分裂を画策」 汪兆銘政権を支援
独ソ不可侵条約 日米通商航海条約の破棄 外国映画の制限 ネオン禁止令
1939阿部内閣価格統制令 9月ドイツのポーランド侵攻
1940米内内閣1940/3汪兆銘南京政府樹立(日中合作) 日米通商条約の破棄
1940-41近衛内閣(二次/三次)
1940/9インドシナ進駐  日独伊同盟(欧州とアジアの新秩序建設) 11大日本産業報国会 
知事や市町村長を国の支部長にして地方官権を強化 国民の標準服を準備
1941/4日ソ中立条約 1941/7南部仏印進駐 帝国国策遂行要綱(対米戦の準備)
※1936斎藤議員が1940に反軍演説 議長は速記録を削除 芝居 

1942「大東亜省」を創設し二元外交を招く
重光外相はアジア主義に賛同し1943/11大東亜会議の開催に奔走(大東亜共同宣言)
※1933重光の手記より (1942大東亜大臣を兼任)
...欧米は阿弗利加および亜細亜の大部分を植民地とし亜細亜民族の国際的人格を認めないのである」      (正しくは欧州列強)手記の意図は反米煽動 
1944/3インパール作戦 国民党への支援物資を完全に断ち切るための無謀な作戦は失敗
岸商工大臣「1953に親友の三輪寿壮に働きかけ」社会党入りを試みるが断られた
仕方なく自民党入りした岸は「軽武装&対米協調路線」に反発し除名された

後ろの大川に頭を叩かれた東条英機
裁判長に精神病と判定され無罪となった大川周明は大東亜共同宣言の作成者
官費生たちは延安のアヘンを密輸するよう指導した

1944小磯内閣 緒方 竹虎翼賛会副総裁 朝日の副社長 
1945/1「帝國陸海軍作戦計画大網」 (本土決戦) wiki   1億殲滅作戦
連合国軍が侵攻してきた場合、出来る限り抗戦して敵の出血を図りつつ、長駆侵攻してくる敵を日本本土深くまで誘い込んだ上で撃退するという海軍の漸減迎撃戦略採用
1944陸軍兵力400万人 日本本土兵力45万人 物資不足のため肉弾戦を決行  
自爆戦闘機の桜花 特攻専用機の剣 人間魚雷の回天 ベニア製ボート震洋など本格的な特攻作戦を軍に指令 特に戦果を上げたのは1944フィリピン沖の神風人間爆弾の体当たり攻撃で敵艦海兵隊を恐怖のどん底に突き落とした 映写フィルムなどで異常な攻撃を目の当たりにしたアメリカ軍上層部は特攻の出処を分析し日本軍港の範囲を広げ攻撃目標に定めた また日本軍や民兵組織は明らかに不利な状況でも降伏せず自爆攻撃を仕掛けるため「本土軍事拠点の徹底的な壊滅」を遂行せざるを得なくなる 小磯内閣と陸海軍は左翼メディアの煽り報道に歩調を合わせ大規模な民間殲滅を誘導した 汪兆銘は名古屋で客死
 日本本土は少年少女の竹槍隊など民間殲滅を誘導
中国大陸では「国民党打倒の兵力を温存させ」同胞の中国共産党を援護した

1945/4~8.17鈴木貫太郎内閣 
中国 1945/8南京で左翼日本軍は降伏
終戦時の