なんだろー
泣けました。
Voyageよりも(笑)

しようがないんだものね。
推すって行為、
なんだか目が座った感じ。
でもひたすら可憐なんですよね。

推しのことばを一生懸命メモして真意をはかろうとするなんて、泣けるしかない。

言葉なんて、
その場、その時で変わるし、
真意を伝えそこねることだってあるというのに。
神様ではないんだから、推しだって知らずに嘘もつくし。知ってて嘘もつくし。

甘くて切ない。

そして、ファンは、
たぶん推しの側にいる人よりずっとずっと推しの表情、身体の癖や特徴を熟知している。

悲しいかな、知り合いではないから、彼との人間関係で時間を奪われることがなく、ずっとずっと一方的に勝手に推しを見て知ることに時間を割いていられるから。

現実に相手になる人ではないのにと周りの大人に言われる“あたし”。

でも推すって行為は、
言い換えれば、あの人をものにしようなどと考える野心のないピュアな行為。

「一定の隔たりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが安らぎを与えてくれる、満たされる」

ただ、その距離感も関係性もわかっているのに、ひたすら憧れであることもわかっているのに、

現実は、推しの一挙一動に振り回され思いつめ、生きているすべての時間の彼方に推しがいる。
あるときは救われ、あるときは苦しい。

そして、
推しのすべての行為を神格化し正当化し、

今まで自分が生に知り合った何千人何百人の人間の中にそんな立派な人いた?と思うけど、

推しなら100パーセント肯定できるなんて、
ほんとに泣けてしまう。

たまたま見た番組で、
アイドルの立場で加藤シゲアキくんが「ステージと客席にはそのへだたり分のやさしさがある」という一文が心に響いたと言っていたけど、
アイドル側から見てそれが全てなのかもしれない。

推しにも私達が知らない時に客席側に降りて生きている時間がある。

彼女にシワシワの洗濯物をたたませて、無精髭で転がっている時間がある。

そしてファンはそんな知らなくていいことを知りたがり、呆然とする。
ステージの上だけ見てればいいのに。

推しがいる日々は
必死で健気で乱暴で切ない。

「仕方ない」

生きていくために。

嵐の推しの世界に踏み込んでみて、アンリーさんとかいろんなファンがいることを知って、あくまでも推し目線でいろいろ考えさせられる本でした。