夕飯を終えた後、龍一は帰り支度を命じられ、少ない荷物をバッグに詰め込む。滞在が予想以上に伸び、思いがけない事件もあって両親は疲れ気味だ。龍一もまた、疲れてはいたが早く帰りたいという気持ちはあまりなかった。

岸たちは昼過ぎに帰ったようだった。見送りに行こうと思わなくもなかったが、予想以上にまだ混乱がこの家に残っていて龍一も自由に行動することが叶わなかったから結局挨拶も何もせぬままだ。もう会うこともないのだろうが、なんとなくそのことをいつかどこかで栗田に責められそうで落ち着かない。

「?」

ふいに部屋の襖が揺れる。誰か…もしかしたら急かしにきた両親か姉か…龍一は浅い溜息をついて襖をスライドさせた。

「嶺亜くん…?」

そこには嶺亜が立っていた。龍一のバッグをちらりと見やる。

「帰んの?」

「あ…うん。塾もあるし春休みももうそろそろ終わりだし…」

「ふうん。つまんないの」

ぶっきらぼうなその一言に、龍一は何故か胸が暖かくなる。根拠はないが、その一言に「まだ帰ってほしくない」という嶺亜の意志を感じたからだ。

頭の奥のコンピューターが稼働し始める。なんとかして、合理的にここに居残る理由はないか検索をかける。両親と姉を納得させるにはどうしたらいいかを…

「えっと…」

「ちょっとなら時間あるでしょ?来なよ」

嶺亜は背中を向ける。龍一の返事を聞かずに歩きだしたから問答無用で付いていかざるを得なくなる。幸いにも荷造りはもう済んでいた。

裏庭に続く長い廊下をすたすたと嶺亜は歩く。途中、使用人の何人かとすれ違ったがまだ嶺亜の存在は浸透していないらしく、不思議そうな眼で見られていたが彼はそんなことはおかまいなしといった感じだった。

「嶺亜、どこに行くの?あら龍一君」

縁側に差し掛かる頃、嶺亜の母親が呼びとめた。その表情は穏やかで、もう以前のように精神病を偽らなくて良くなったことを表していた。涼しげな目もとがやはり親子そっくりだった。

「裏庭の桜の樹だよ。ねえお母さん、あのお墓もういらないから早くどかしてよ」

「そうね…」

嶺亜の母は微笑んだ。その優雅な微笑みは今この家が事件の余波でバタバタとしていることなど微塵も感じさせない。まるでそんな事件などなかったかのように穏やかだ。

桜の樹は満開を迎えようとしていた。薄紅色の可憐な花びらが空に向かって一心に顔を向けている。樹齢千年を超える立派な桜の樹…それだけで春を象徴しているかのようにそびえたっている。それが灯篭でぼんやりとライトアップされていて幻想的な美しさを湛えていた。そう、まるで嶺亜のような…

大樹のふもとにある苔むした墓碑銘に向かって嶺亜はゆっくりと進む。死んだことになった自分の墓を、嶺亜はどんな思いでこれまで見つめ続けてきたのだろう…

もうそれは必要のないものだ。一度消えた命はまた灯された。19年の歳月をかけて。

そんな感慨に浸っていると、急に視界が暗転する。目の前の景色が突然に寸断され、衝撃と共に鈍い痛みが…

「…!?」

自分の身に何が起きたのか分からず、パニックになってうろたえた。ツンと土の匂いが広がる。一体これは…?

「あははははははははは!!やったぁ大成功!!」

大笑いが頭上から降り注ぐ。尻をさすりながら立ち上がろうとするとしゃがんだ嶺亜が満足そうに龍一を見おろしていた。

「落とし穴作ってみたの。お昼過ぎから掘って大変だったから誰かにひっかかってもらわないとつまんないし。良かった龍一がまだ残ってて。一度やってみたかったんだぁ」

嶺亜はぴょんぴょん跳びはねて喜びを露わにする。龍一は自動的に自我修復が訪れた。

「…」

さっきの「つまんないの」はそういう意味だったのか…別に別れを惜しんでいるわけではなく単にいたずらの犠牲者が欲しかったということ…

「あ、その指くるくるうっとおしいからやめて」

「はい…」

ようやく穴から脱出すると、目の前には墓碑銘があった。嶺亜の名が刻まれたその冷たく硬い石は沈黙している。

「ねえ龍一」

嶺亜は桜の樹を見上げていた。枝でも花でもなく、その先にある空でも星でも、ましてやぼんやり浮かぶ月でもなく、もっと遠くを見つめているように龍一には見えた。

「僕をあそこから出してくれてありがとう」

「…?」

「って、いつかあのおじさんに言っといて」

「…」

龍一は嶺亜の言っている意味を半分くらいは理解したが、返事ができなかった。何故ならば…

「なんとなく気付いてるんでしょ?」

「…」

龍一が何も答えないからか、嶺亜は目を細めた。その感情はすぐには読み取れない。龍一の苦手分野だ。

「あのおじさんには無理だもんね。大お爺様を殺すのは」

「…」

嶺亜の言わんとしていることを、徐々に龍一は感じ始める。少しだけ心臓の脈打ちが早まった。

そう。叔父には不可能だ。警察が現場検証でどういう判断をしたのかは知らないがきっと彼らは気付いてないのだろう、数々の矛盾に。だからこそ叔父は自首という形でピリオドを打った。警察に任せていては永遠に解決はしない。

この家は広い。その間取りを使用人と家人以外で把握できる人など恐らくいない。その気でもなければ。

しかも、嶺亜が閉じ込められていた部屋の作りから察するに、ただ広いだけでなく様々なからくりが仕込まれていることは想像に容易い。いつの時代に建設されたのかは詳しく知らないが恐らく大昔…セキュリティも何もない時代に莫大な財産と自分の命を守ろうと思ったら侵入者から身を守らなくてはならない。だからこそ複雑にしてあるのだろう。そして、それだけではなく侵入者を欺く様々なからくりも施されている。

嶺亜の閉じ込められていた部屋も、ある意味では安全な寝室とも言える。外部から侵入できないのだから。

そのからくりを熟知しているのは誰か。家主でさえ知り得なかった屋根裏のからくりを見つけ、そしてそれを利用したのは…

「僕はね」

うっすらと微笑みを浮かべながら嶺亜は言った。

「いつかは出られると信じてたから、あそこでの生活もそんなに苦じゃなかった。だってどう考えても大お爺様の方が先に死ぬでしょ?だから、あと数年の辛抱かなって思ってたんだけど…でも」

龍一の思考を立ち切るかのように、嶺亜は龍一に向き直る。そして真っ直ぐに瞳を向けてこう言い放った。

「僕は今すぐにでもあそこから出たくなっちゃったの。待てなかったの。大お爺様が亡くなるまで」

「それは…」

それはきっと、嶺亜の中にそうしてでも逃したくないものが出来たからだ。そう、つまり、それは…

龍一がそれを口にしようとすると、それに被せるように嶺亜は話題を変えた。

「大お爺様がいなくなったのはいいんだけど、警察の人がいつまでも家の中にいたら僕は出ることができない。変に家の中をあれこれいじくられて、万が一僕の部屋も見つかってしまったらややこしいことになってしまいかねない。一難去ってまた一難。さあどうしよう?」

呑気な口調でまるでクイズでも出すかのように嶺亜は問いかけてくる。龍一は徐々に自分の中に動揺が走り始めるのを自覚する。

「答えは簡単。犯人が捕まればいいんだよ。そしたら警察の人がここにいる必要もなくなるし。現場検証も大お爺様のお部屋ぐらいだろうしね」

「…」

「あのおじさんはどうして自分が殺してもないのに殺したって自首したんだろうね。不思議に思わない?」

龍一は薄々気付いていた。叔父の中にこの家に対する恨みの感情など感じたことなどない。だから動機が不十分だ。なのに何故彼は自分が殺したと偽りの告白をしたのか。その理由をずっと考えていた。

「まさか…」

唇が震えていた。龍一はその先を聞くのが怖かった。だが無情にも表情を殺した嶺亜の口からそれが放たれてしまう。

「僕の本当のお父さんはあのおじさんだよ」

落とし穴に落ちた時とは全く違う意味で目の前が真っ暗になった。

ああ…

龍一はようやく理解した。あの時の叔父の「これでいいんだよ」の意味が。

彼は自分を犠牲にして守ったのだ。嶺亜を。そしてその母を。愛する女性を。

兄の妻と道ならぬ関係を持ち、生まれてきた子は存在を消され、兄を絶望の淵に陥れ、そして愛する女性は精神を病んだ…叔父の横恋慕が招いた悲劇…その全ての責任を彼は取った。

では一体いつ叔父はその事実を知ったのか。

龍一は毎年のように叔父とここで会っているが、そんなことを感じたことは一度もない。関心がなかったと言われればそれまでだが、それにしても…

そこで嶺亜と目が合った。彼の瞳は昏く澱んでいる。その澱がこう告げているように龍一には思えた。

叔父が全てを知ったのはここ数日のことだ。それまで彼は自分との子が葬られ、嶺亜の母が精神を病んでしまった。その事実だけしか知らなかったのだろう。

いつだったか、廊下で叔父が嶺亜の母を心からの同情の眼で見ていたのを思い出す。その時、彼は嶺亜の母が精神を病んだふりをしているとは知らなかった。もし嶺亜の存在を知っていたとしたら同情よりも悔恨の方がずっと強いはずだ。

何故今になってそれを知らされたのか。19年経った今、このタイミングなのは…

誰からなのか。どうやってか…

疑問が幾重にも渦巻く。導かれた結論、それは…

「栗田…」

その名を呟くと、嶺亜の表情が一瞬だけ変わった。

「栗田に出会ったから、もう一度会いたいから、だからあそこを抜け出したかったんだね」

嶺亜は答えなかった。しかしそれだけで充分だった。

「このままの生活を続けていたら、会いたい時に会えない。それに、栗田がまた会いに来た時…きっと彼の考えなしの言動から自分の存在がバレる危険が高い。そうなったら会うどころじゃなくなる。どうやっても軋轢が生じて願いどおりにはいかなくなる。だから…」

嶺亜が屋根裏生活の中で初めて生じた「出たい」という欲求…それを芽生えさせたのは栗田との出会いだ。彼の太陽のような振る舞いが、月しか知らぬ嶺亜の心に火を灯した。その欲求は爆発的な感情を呼び起こし、そして…

龍一は首筋に汗をかいていた。もう陽はとっぷりと暮れ、ひんやりした空気が辺りに漂っているのに

「だから、その元凶を絶った。それを話したんだね、叔父さんに」

この家のからくりの全てを嶺亜は理解している。夜中に徘徊して回り、それを一つ一つ確かめる。19年かけてそれは全て脳にインプットされていた。

いや…

嶺亜一人では不可能だ。何故なら彼はそんなに自由にこの屋敷の中を動き回れない。せいぜい人が眠った後の真夜中ぐらいだ。

「僕はあのおじさんとは一度しか会ってない。一昨日の夜中…だったかな…話したのはお母さんだよ」

囁くほどの音量で嶺亜はそれだけを答えた。

龍一は察した。そう、手ほどきをしたのは嶺亜の母親だ。彼女は精神を病んだふりをして屋敷の中を徘徊し続ける。この家の間取りは手に取るように把握しているだろうし、多少不自然な場所にいても訝しむ使用人もいない。

屋根裏のからくりも、中と外、同時に同じ場所を押してしか開けられないというのなら最初にどうやってあそこを開けたのか。中に誰もいないはずなのに。それも今更のように疑問となる。恐らくはあそこ以外にも屋根裏に出入りできる術があるのだろう。

嶺亜の母はこの屋敷のからくりは全て熟知している。だから合い鍵なんてなくても、容易に家主の部屋に潜りこめる。合い鍵も何もかも意味はない。

あの晩…龍一がかけたはずの鍵が開いていたのはやはり現実だったのだ。鍵を簡単に開けられるからくりもまた存在している。自由に開け閉めできるからまたかけ直すことも可能。だから起きた時またかかっていた。

まどろみの奥で龍一は女性のかぼそい声を聞いた記憶が蘇る。

「やっと出してあげられる…」

それは母の悲痛な願い。彼女の中ではもう叔父の存在は過去でしかない。かつては愛した相手かもしれないが、この19年間が全てを変えてしまった。

嶺亜が自分の子だと叔父がすぐに信じたのは、やはり嶺亜が彼女に生き写しだったからだろう。愛する女性の面影をこれほどまでに濃く受け継いだ姿を目の当たりにしたら、理屈など不要だ。いや、理屈も幾つか存在するのかもしれない。嶺亜の父は子どもの作れない体だったか、行為を母が拒み続けたか…いずれにせよ宿すはずのない子を妻が身ごもったことに彼は絶望し、そして精神を病んで自らの手で命を絶った…

全てを叔父に被ってもらって、嶺亜を自由にする。

母の想いは修羅となる。そうして彼女は息子と共に全ての元凶を絶った。

「栗ちゃん、GWに釣りとバーベキューに行こうって言ってた。龍一、お前も来る?」

無邪気な笑顔で嶺亜はそう言った。満開の桜の下、自らの墓碑銘に片手を乗せながら。

龍一は目を閉じる。その、ほんの0.数秒の間に何もかもを封じ込めた。

再び目を開けた時…目には雲間から覗く月が映る。妖しく、美しくぼんやりと灯る儚げな月光が目に染み入り、瞳が潤みを帯びてゆく。

これでいいんだ

龍一は声にならぬ声で、そう呟いた。

「うん、行くよ」

月の光に照らされた墓碑銘に刻まれた「嶺亜」の文字にそっと触れながら、龍一はそう答えた。

 

 

 

END

 

 

Back Ground Music

「Epitaph for Moonlight」

(Music by : Raymond Murray Schafer)

「Ejszaka(NIGHT)」

(Music by :Jozsef Karai)

「Sure on this shining night」

(Music by :Morten Lauridsen)

「Ave Maria (Angelus Domini)」

(Music by : Franz Biebl)

「The Ground」

(Music by : Ola Gjeilo)