覚醒は突然訪れる。目覚めるとびっしょりと汗をかいていた。

暖房は切ってあるし、四月の早朝のひんやりとした空気が取り巻いている。なのに龍一は寝汗をこれ以上ないほどにかいていることに気付く。

セットしていない目覚まし時計を見るとまだ朝の5時半だった。何時に自分が寝付いたのか正確には分からないが酷く体はだるい。睡眠時間が足りていないのか、疲労が濃いのか…

何かとてつもなく恐ろしいものを垣間見たような気がしたがそれは頭の奥で靄がかかったように思い出せない。脳が思い出すことを拒否しているかのような気がして龍一は諦めた。

「…」

頭を軽く振って起きあがる。なんとなく部屋の中にいたくなくて龍一はトイレに行くことにした。部屋の鍵はちゃんとかかっていた。

廊下には薄明りが挿し込んでいてもう夜明けだということを認識し始める。少しずつ頭はクリアになりつつあった。

「ぎゃあ!!」

しかし一気に現実に引き摺りこまれる。突然耳をつんざく悲鳴に龍一は自分も腰を抜かしそうになった。

「あ、えーと…」

どうやら同じくトイレに訪れたと思われる昨日出会った少年の一人だった。大きな眼に涙をうっすらと滲ませている。龍一のことを思い出したらしく、ぽんと手を叩いた。

「あ、そうだ、谷口、谷口だ。こんな朝早くからどしたの?トイレ?」

と訊ねてきたがいかんせん名前が違う。とりあえず訂正しておいた。

「…谷村だけど…」

「ああそうだっけ。谷村もトイレ?いきなり現れないでよ。ちびるとこだったじゃん。せっかく幽霊云々から解放されようとしてるのにさあ」

「…よく分からないけどすみません…」

人見知りを発動させながら用を足すと、何やらざわめきが耳に飛び込んでくる。岸と共に階下におりると次第にそれは大きくなり他の親戚や使用人も集まりだした。

そこで龍一は不可思議なものを見る。

「…叔父さん…?」

叔父が、刑事に両腕を抱えられながら廊下を歩いてくる。それが意味するものを龍一は理解できない。

何故叔父が刑事に?

何故?

どうして?

停止する思考。そして壊れたレコードプレーヤーのように同じフレーズばかりが頭の奥で繰り返され、呆然としている龍一の横を叔父が通り過ぎようとした時、彼と目が合った。

「なんで…?」

龍一にはそれしか言葉が出なかった。混乱はすでに最大レベルにまで達しつつあり、心臓が変拍子を打つ。

幾重にも折り重なる疑問を叔父はその一言だけで察したのか、背中を向けながら低く、だがしっかりと聞き取ることのできるはっきりとした発音でこう言った。

「これでいいんだよ」

龍一には叔父が言わんとしていることは理解できなかった。

混乱の向こうでパトカーのサイレンだけが谺していた。

 

 

「マジかよ…」

起床した後で事実を聞かされた岸以外の皆は絶句し、朝食に手をつけられず箸を止めていた。倉本以外は。

「なんでまたあのおっさんがじーさん殺さなきゃなんないわけ?」

事件に興味のなさそうな栗田がぼそっと呟くと、岩橋と神宮寺は顔を見合わせて首を捻る。挙武もまた、神妙な面持ちだった。

「自首してきたんだってね…」

岩橋が呟く。そう、彼は早朝、寝泊まりしていた刑事の元に現れ「私が殺しました」と自首したという。面くらった刑事はそれから本部に連絡を取るやら何やらで大騒ぎになった。今もなお、混乱は収まっていない。

「あのおじさんに爺さんを殺す理由があったってこと?」

ここぞとばかりに他の皆の朝食にも手をつけながら倉本が問う。それを受けて挙武が記憶を掘り起こしながら神宮寺と二人で慎重な口調で語り始めた。

「ばあちゃんにちらっと聞いただけだけど…あのおっさん、確か亡くなったここの入り婿の弟かなんからしい」

「その入り婿は…ここだけの話だが、あまりいい死に方じゃなかった。半分自殺のようなものだってうちの父も言ってた気がする。どうも、家の中で色々とゴタゴタがあったらしい」

「ゴタゴタ?」

「俺も生まれる前後のことだから知らないが…嶺亜が女の子として生まれてこなかったことで彼もまたあの家主の爺さんに責められたらしい。お前は一族に災いをもたらした、とかなんとか…」

「それで精神的に追い詰められて…ってことか…。弟だったら色々と聞いてるだろうし、密かに恨んでいたのかもね…」

「じゃあ、簡単に言えば復讐ってこと?」

颯がそう結論づけた。挙武はしばし天井を仰ぎ見た後、ゆっくりと頷く。

「それしかないだろうな。ずっと機会を窺ってたのかそれとも衝動的なのか…それは分からないけど…」

「親戚とはいえ、一年に一回しか訪れないのにこの家の間取りとかマスターキーとかそんな簡単に誰にも知られずに取れるもんなの?」

岸の問いに、岩橋が考えながら答える。

「よくは分からないけど…法事の期間だけしか訪れないってわけじゃないのかも…。それこそ計画的だったら何度か訪れて間取りも覚えて…エリートだったみたいだしそれも難しくもないかもね。マスターキーの管理もそこまで徹底してるわけじゃないってことだろうね」

「一件落着、か…」

挙武が呟き、やりきれない空気が流れる。誰かが溜息をつくと、それをスイッチのようにして皆黙々と朝食を取り始めた。それは半分くらいもう倉本に浸食されていたが。

「谷村のヤロー、どうしてっかな」

納豆をかき混ぜながら栗田が呟く。倉本が三匹目のサンマを食べながらその呟きに反応する。

「お、心配してやってんの?」

「心配?なんでだよ?」

「え、犯人のおっさん、あいつの親戚でもあるんだろ?だから親戚の中に殺人犯が出ちゃったことに対する心配とか」

「あ?あのおっさん谷村の親戚だったんか?んなこたどーでもいーんだよ。なんか一発蹴っときたい気分なだけだよ」

「素直じゃないなあ…んじゃこれ食べたら行ってみる?」

颯の呼びかけで、朝食後に龍一に会いにいくことになったが、彼の周りはそれどころではないらしく、大広間では親戚たちによる今後についての議論が食事の時間を惜しんで交わされていた。

 

 

「どうしてだ…どうして…」

親戚の誰もが言葉を失い、まだその事実を受け入れることができないでいた。龍一もまた、頭の中がまだ整理できていない。これはまた悪い夢の続きではないのだろうかとすら疑っているほどだ。

「…やはり兄の死を恨んでいたのか…そんな素振りもみせず虎視眈眈とその機会を狙っていたというのか」

「あれは可哀想な死に様だったからな…しかし、それにしても…」

「しかし大変なことをしたもんだ…これから一体どうなる…」

大人たちの議論を方耳に、龍一は姉に促されて席を外すことにした。こういう話を聞かせたくないのだろう。それに従うことにする。

しかしどこへ行くともなしに、自然と足が向いたのは裏庭だった。

風は柔らかい。もう春だ。庭園には穏やかな春の風景が広がっている。

昨日よりその枝ぶりが立派になっていた千年桜は、ここで起きた悲劇の数々など全くそしらぬ感じで堂々とそびえ立っている。満開と同時に生まれた命が19年の年月をかけてようやく解放されることなど知らぬかのように…

携帯電話をポケットから出して画面を見た。さっき送ってみたラインに既読はついていない。眠っているのかそうでないのか…

嶺亜はどうしているのだろう。それだけが気がかりだった。

「…」

どこかで鳥が啼いた。春を告げる清らかな囀り。それは何かを暗示しているようにも思え、その方向へとなんとなく目線を合わせると、そこに龍一は見た。

「…嶺亜くん…?」

いつの間にか少し離れた位置に嶺亜が立っていた。見間違うはずもない、その白い肌は春の陽光を受けて光沢すら放っているように見えた。

明るい太陽の下に嶺亜がいる。

あまりにも現実離れした映像に、これもまた自分が見ている夢なのかという疑問がまだ拭い去れない。実はもう自分は死んでいて、これはその死語の世界が見せている幻なのではないのかと…

「ふぁ…」

龍一の胸の内の大渦など全く悟る様子もなく、呑気な仕草で嶺亜は欠伸をして近づいてくる。まるでここで起こった事件など全く何も知らないかのような素振りで、軽い錯覚を覚える。

嶺亜は白いセーターに黒のジーパンという格好だった。モノクロームな色合いが春の彩りに少しミスマッチで不思議な錯覚を招く。龍一は呆然とその姿に見入ることしかできないでいた。

「ちょっと寒いね」

「…」

嶺亜の言葉にすぐに反応できないでいると、彼は少し不満そうに龍一を睨む。

「なに、まだ寝てんの?」

「…いや…」

現実のものかどうかまだ判断がつかない…そもそも何故このタイミングで嶺亜は外へ出てきたのか…そんな疑問が渦巻き、言葉が出ない。

「だ…大丈夫なの…出てきても…」

やっと出てきたのはそんな疑問だった。これまでただの一度もこんな時間帯に外に出てくることがなかったから、家主が死んだとはいえかなり大胆な行動のように龍一には思えた。

だがそんな龍一の懸念を嶺亜はしれっと一蹴する。

「なんで?大お爺様が亡くなったんだから、もう僕はあそこに閉じこもっておく必要ないじゃん」

「…そうだけど…」

「犯人が捕まったってお母さんに聞いたから出てきたの」

「…」

そうだ。叔父が自首して、警察は彼の身柄を拘束して数名の捜査員を残して引きあげていった。今頃彼は…

だが嶺亜はこの事件にはさほど関心はないようだ。自分を閉じ込めていた曾祖父も、その彼を殺した犯人にも何の感慨を持たないのか次に出てきたのは事件とは全く違ったものだった。

「ねえ、栗ちゃんたちどこにいるの?まだ帰ってないよね?」

「栗ちゃん…?あ、えっと…多分二階の大広間にまだいるはず…」

「そう。じゃあいこっか」

「え…」

戸惑う龍一に構うことなく嶺亜は大広間に向かって歩きだした。途中、残っている捜査員とおぼしき男とすれ違ったが全く気にしていないようだった。それもそうかもしれない。まさかこの家に19年も人が閉じ込められてるなんて思いもしないだろう。きっと龍一と同じ親戚の子にしか見えていない。

大広間に栗田たちはいた。嶺亜が入って来たのを見て、三人の集落の少年は驚いていたが岸たちはきょとんとしている。大喜びしたのは栗田だけだがその反応だけで嶺亜は満足したらしく、にっこりと微笑んだ。

 

 

「れいあ!!どーしたんだよお前!!あそこから出てこれたのか!?もう出てきてもいいんだな!?」

大声で歓喜のまくしたてをする栗田に、嶺亜は微笑んで頷いた。

岸たちは初めて嶺亜を見る。思っていたよりずっと華奢で中性的で、先日廊下で出会ったあの女性に瓜二つだ。

そして岸は思い出す。あの日幽霊だと思ったのも無理はない。肌の色が真っ白でまるで太陽の光を一度も受けたことのないような印象すら覚える。

「お母さんが出てもいいよって言ったから…帰っちゃう前に一回会っておきたかったし」

「おおよ!!あ、紹介すんぜ。この涙目汗だくビビリが岸で、こっちの背高い純朴野郎が颯で、こっちの冷蔵庫が倉本だ!!挙武たちのことは知ってんだよな!?」

栗田の雑な紹介で一通り岸たちを見据えた後、嶺亜は挙武たちに視線を向ける。

「久しぶり」

あっさりとした挨拶に、挙武たちは少し面くらっている様子だった。

「大丈夫なのか…出てきて…」

挙武がそう口にすると、嶺亜はそしらぬ顔で答える。

「龍一もさっきおんなじこと言ったよ。大お爺様が亡くなったんだから僕があそこに引きこもってる理由はもうないじゃん」

「まあそうだけどよ。んじゃ今あの部屋には今誰がいんだよ。ばーちゃんか?」

神宮寺の問いに、それも嶺亜は即答した。

「あの部屋はもう必要ないから僕が必要なものだけ持って出たよ」

「そう…なんだ…」

岩橋もまた、戸惑い気味の口調で呟いた。三人はまだこの展開に頭が付いて行かないのか、喜んでいるというよりは戸惑いと驚きの方が濃い。

「ふーん。栗田が言ってた嶺亜ってこの人のことか。俺は倉本郁。冷蔵庫じゃねえぞ」

嶺亜をまじまじと見つめながら自己紹介をする倉本に彼はにっこり微笑んだ。柔らかい笑顔にそれまで若干緊張していた颯と岸も少しそれを解く。

「あ、ども。俺は岸優太です。その節はどうも…」

おかしな低姿勢で手を差し出す岸に、嶺亜は吹きだす。それを受けて颯も自己紹介をした。

「俺は颯。高橋颯ですよろしく!特技はヘッドスピンと利き麦茶!」

「あははは。栗ちゃんの言ってた通り、面白い子たちだね」

嶺亜は声をあげて笑う。無邪気な笑いはどこか浮世離れしているように思えたがそんなものかもしれない。19年も外の世界と隔絶されていたのだから。

「ギャハハハハハハハ!!だろー?おもしれー奴らだから退屈させねーぜ!!神宮寺たちもおもしれーけどなギャハハハハハハハ!!」

「う~ん…神宮寺は下ネタばっかり言うから嫌」

「んだと嶺亜!!久しぶりに会っといてそりゃねーだろーがよ!!だいたいお前も玄樹も下ネタに対して過剰に拒否反応示し過ぎなんだよ!!ほんとにタマついてんのかぁ?」

「あーもうこういうところがホント嫌。ねぇ、玄樹?」

「まあ下ネタに関しては同意だね。いい機会だから改めてほしいな」

「なんの機会だよ!てかおめーら揃いも揃って女子みたいなこと言いやがって…その点岸くんたちは俺の味方だよな!な!?」

岸たちにすがる神宮寺に挙武はくすくすと笑っている。食べ物にしか興味のない倉本、興味関心が専ら嶺亜に向いてしまった栗田、シモネタって何?お寿司のネタ?状態の颯では分が悪い。必然的に岸と神宮寺がタッグを組まざるを得なくなる。

「まーそのなんと言いますか、下ネタは男のたしなみみたいな部分がありますから、お二方ともそんなに目くじらをたてることもないのでは…」

低姿勢の岸の説得に岩橋は笑ったが嶺亜は冷たい目を向ける。

「ビビリの上に下ネタまで言いだすとか勘弁してよねぇ。夜中ビビってちびったりしないでよ?」

「…随分と手厳しい…」

「岸くんよー、コイツは見ての通りのヒネクレもんだからあんま気にすんなよ。それより俺のオススメエロ動画を…」

神宮寺が岩橋に耳を掴まれようとしたその時、襖がガラリと開く。そこには神宮寺の祖母が大きなお盆を持って立っていた。盆の上には大量の大福が乗せられている。

「嶺亜様…」

「あ、ヨネさん」

うるうると目を潤ませる老婆に嶺亜は無邪気な笑顔を見せる。

「ありがと。おやつ持ってきてくれたの?」

「はい…はい…奥さまから嶺亜様がお部屋を出られたと聞いて…先程別の使用人からこのお部屋に入られたと聞いて勇太や挙武ちゃん、玄樹ちゃんに会いにいかれたのかと…」

涙混じりに老婆は答える。感極まっているのはすぐに伝わった。涙もろい颯なんかはもう感情移入して鼻をすすっていた。

「ううん、僕は別に神宮寺たちに会いに来たわけじゃないの。栗ちゃんに会っときたかったから」

だが嶺亜はしれっとそう答えた。悪気はなさそうである。これが挙武の言っていた「空気が読めない」というやつだろうか…岸は不思議と納得した。

「そうですか…なんにせよ嶺亜様がこうしてお友達と気兼ねなくお会いできる日が生きているうちに見れようとは…亡くなった大旦那様にはお気の毒ですが、どれだけこの日を待ちわびたか…」

「うん。ある意味ではあのおじさんに感謝しなきゃね」

そこでそれまで仏像のように立ち尽くしていた龍一がわずかに反応を見せた。

家主を殺した男性は龍一の叔父だ。だから色々と感じるところがあるのだろう。その表情は複雑そうに見えた。

しかし次の瞬間にはもう龍一はそれを封じたように見えた。相変わらずの人見知り全開で隅っこで皆の動向を窺っている。

「そういえば…岸くん達はどうするの?帰るんだったらうちの車で送るけど…」

岩橋が言うと、4人皆でうーんと首を捻る。事件が解決して、もうここに留まる理由もない。どうするのかを全く考えてなかった。

栗田は残留を強く望んだが、家主が亡くなっている以上通夜や葬儀、そして事件の詳細な経緯などを調べるためこの家は慌ただしくなる。嶺亜も老婆に聞かされて渋々落ち着くまでは目立った行動を控えることを納得した。

「ま、そろそろ帰らないと家族も心配するしな」

かくして岸たちは滞在から数日…ようやく帰路に着くこととなった。