大広間に行った頃にはもう昼食の準備が終わっていた。席に座ると姉がきつい口調で問い質してくる。

「いつまで寝ているの。朝ご飯にも姿を見せないで…こんな時なんだししっかりしてちょうだい」

「…疲れてて起きれなかったんだ…ごめんなさい」

素直に謝ると、姉はそれ以上責めてくることはなかったが代わりに大きな溜息が返ってくる。

姉だけでなく、この場にいる親戚全員に疲弊の色が出始めていた。だが龍一は多少の眠気と肉体的な疲労はあるものの気分は悪くはなかった。

龍一が昼過ぎまで起きることができなかったのは、夜中起きていたからだ。

昨晩の回想がぼんやりとした意識の奥で響く。

「れいあ、おめーなんで壁ん中から出てきたんだよ。つーか何この仕掛け?」

栗田恵、と名乗った少年は最初こそ戸惑いを見せたものの、数分でもうそんなものはなかったかのように自然体で嶺亜と話し始めた。

夜の闇と静寂の中で、その声はしかしひどく目立つ気がした。龍一は今にも誰か起きてくるのではないかと気が気ではない。

それを察した嶺亜が壁の向こうに栗田と龍一を招いた。

「龍一、お母さんに僕が話しておくから明日の朝早起きして栗ちゃんを出してあげて」

「…うん」

龍一と嶺亜の会話の意味が全く分からない栗田はさすがに少し声を荒げた。

「おい!なんも見えねえぞ!どこの部屋だよここは!!どうなってんだ!?」

「手を繋いであげるから付いてきて。龍一、お前は一人で歩けるよね?」

「…うん」

そう答えるしかなかった。しかし龍一は暗闇の中で置いてきぼりにならないように必死に神経を研ぎ澄まして付いて行く。やがて薄ぼんやりとした視界が開けた。

「…ここにお母さんとヨネさん以外の人が入るの、何年ぶりかなぁ…」

感慨深げに、そして独り言のように嶺亜が呟くと眩しささえ感じる光が瞳に飛び込んでくる。電灯がついただけなのだが闇に目が慣れてしまっているせいで強烈に感じた。

龍一も中に入るのは実に久しぶりだ。頭の奥で数えてみたがざっと4~5年ぶりくらいだろう。訪れるのは三度目である。

何の変哲もない一つの部屋…ベッドと机と本棚と幾つかの電化製品…きちんと整理されていて清潔な空間だ。奥に見える二つのドアはそれぞれトイレとバスルーム。ちょっとしたホテルのような設備…それらはこの屋敷の屋根裏部屋として設置されている。小さな採光窓が一つあるだけだ。

ここが、嶺亜の世界の全てなのだ。広さにして50平方メートルほどの小さな空間…

そのあまりにも狭すぎる世界に閉じ込められた存在を知るものは少ない。何故なら彼はもうこの世にはいないことになっているから。

「龍一、ほら、嶺亜ちゃんのお墓にちゃんと手を合わせなさい。天国から見守っていてねってお祈りするの」

古い記憶がある。幼稚園に入る直前に法事でこの屋敷を訪れた時のこと…小雨の降る生温かい風が吹く春の日…裏庭のお墓の前で母親に言われるがままに龍一は手を合わせた。

「嶺亜ちゃんはね、生まれて一週間で天国に行ったの。龍一より1つ上のお姉ちゃんだったのよ。生きていれば一緒に遊んでもらえたのにね」

生まれて一週間でその一生を終えた親戚のお姉ちゃん…それが龍一の「中村嶺亜」に関する知識の全てだった。

彼女の母はその哀しみで精神を病み、法事にもあまり姿を現さない。だけど時々屋敷の中を徘徊して回るから龍一も何度か会ったことはある。

「あら、遊びに来てくれたの?嶺亜が喜ぶわ。嶺亜ったらどこに行ったのかしらね。呼んでくるから待っててね…」

美しく儚げな女性が龍一に優しく話しかけていく。本当は生きているんじゃないかと思わせるほどにそれは切ない言葉だった。幼い龍一にも触れてはいけないものだということが痛いくらいに伝わってくる。

それを知ってしまったのは小学校に入る前の法事だ。例年どおり龍一は家族で法事に参加していた。しかしその年は母親が急病で来れなくなった。父親も仕事の急用で姉と龍一を他の親戚に数日この家で見てもらって迎えに来る…ということになった。その夜のことである。

龍一は目が覚めた。トイレに行きたくなって隣で寝ている姉を起こしたが彼女は起きてくれなかった。

怖くて仕方がないが、漏らすと次の朝姉に怒られる。それが怖くて泣く泣く一人でトイレに立った時だ…

今にして思えば、よく漏らさなかったと思う。長い廊下の先に誰かが立っていてじっとこちらを見ていた。

お化け?

幽霊?

その瞬間幾つもの恐怖ワードが龍一の脳裏を掠めていったが硬直して動くことも叫ぶことも出来ず、ただ恐怖に震えるしかなかった。

幽霊は近づいてくる。音もなく、忍び寄りその姿が廊下に点在する常夜灯の微かな光に照らされる。

「…だぁれ?」

だが柔らかく穏やかなその声にそれまでの恐怖心が浄化されてしまう。さっきまで震えるほど怖かったのに何故か震えは収まっていた。

ひたひたと歩いてくるその子は、同い年くらいで白いパジャマを着ていた。女の子…かと思ったがそうではないようだ。

「僕は嶺亜っていうの。君はだぁれ?」

無邪気に、笑いながら嶺亜と名乗ったその子は龍一に問う。こんな子、親戚にいたっけ?と思う間もなくその名が死んだこの家の女の子と一緒だということに思い至った。

「りゅういち?ふぅん、龍一っていうんだ」

龍一がなんとか名前を名乗ると、嶺亜は嬉しそうに笑う。ぼんやりと照らされるその可愛らしい笑顔に、状況も忘れて龍一はどこかほっとした。

「嶺亜、何をしているの?」

ふいに、誰かの声が聞こえた。その声は…

「あ、ママ」

くるりと背を向けると嶺亜はその声の元へと歩いて行く。不思議なのは足音がほとんどしないことだ。

「あのね、龍一っていうんだって、あの子」

嶺亜が龍一を指差して言った。嶺亜を呼んだその声の主は、同じ顔をしたこの家の女の人…子どもを亡くして精神を病んだという…

何度か龍一も会っているから知った顔だが、別人のようだった。何故なら全く表情が違うのである。

何処を見ているのか分からない、この世の誰とも断絶してその精神世界には誰も入れない…そんな印象を龍一は抱いていたのに、今嶺亜を抱きしめてこちらをじっと見ているその瞳は紛れもなくこの世の人間で、はっきりとした意識が感じられた。幼い龍一はその矛盾に半ばパニックになる。

だが女性は優しい声で龍一に語りかけた。

「…嶺亜に会ったこと、誰にも言わないでね。お願いね、龍一くん」

龍一は頷く。理屈ではなく本能的にそうしなければいけないことを悟ったのだ。

話せばきっと、もう嶺亜には会えなくなる。

そう察知し、龍一はそうなることを拒んだ。ひらたく言えばまた会いたいと思ったのだ。

だから誰にも話さず、法事の時…一年に一度だけ嶺亜に会って短い時間を一緒に過ごす。それがいつの間にか龍一にはこの家を訪れるただ一つの理由になっていた。

 

 

昨日あれだけ激しく降り注いでいた雨はもう空に留まっている。だが相変わらず一面を黒雲が覆っていて時折ゴロゴロと低い地鳴りのような雷鳴が微かに聞こえる。油断しているとまたひと雨来そうな気配だ。

「…」

広い庭に一際存在感を放つ千年桜の樹…それが少し生気を放っている…近づいて見ると蕾が膨らんでいた。明日にも開花するかもしれない。

樹の根もとの墓碑銘を空虚な心で眺めた。墓碑銘には「中村嶺亜 享年零歳」と記されている。

「嶺亜…」

その名を呟いてみたところで、虚しくなるだけだということは分かりきっていた。この世から存在を消された命。一週間だけしか生きることを許されなかった儚い存在…

そこまで思って、挙武は意識を引き戻される。名前を呼ばれたからだ。

「…栗田?どうした?」

そこに立っていたのは栗田だった。どこか神妙な顔をして、真顔で立っている。そういえばさっき皆できなこ餅をつついた時もどこか気の抜けた様子で元気がなかった。

お調子者でアホな印象しかなかったが真剣な顔をするとそれなりに美少年に見えるんだな…と挙武はぼんやりと思う。

「あのよ…」

彼らしくない、モゴモゴとした切れ味の悪い切り出し方だった。今朝からやけに口数が少ない。寝不足だということを差し引いても様子が少し変だった。

ふいに、頬に冷たいものがあたる。

見上げると、また一粒それは落ちてきた。雨だ。

「降ってきそうだ。とりあえず中に…」

「その墓の奴、生きてんだよな」

挙武は言葉を失う。歩き始めた足は止まってしまった。

「何故それを…」

「俺、昨日の夜中ションベン行った時に迷っちまって…その時会ったんだよ。壁の向こうの屋根裏部屋で生活してんだよな。それに、女ってことになってるけど男なんだよな、れいあは」

すぐに答えることができなかった。しかし、栗田は冗談を言ってるわけでも憶測を言っているわけでもない。自分が体験した紛れもない事実を話しているのだろう。想像にしては正確すぎる。

だからごまかすこともはぐらかすことも無意味だ。

「…嶺亜に会ったのか」

「ああ」

栗田は嶺亜に会った経緯を話す。偶然に偶然が重なって故のことだということはよく分かった。

「谷村龍一…?」

その名前が、頭のどこかにあったがはっきりとは思い出せない。だが嶺亜の親戚の中に年の近い者が何人かいることは知っていた。そのうちの一人だろう。そういえば昨日屋敷の中で同い年くらいの少年とすれ違ったが彼かもしれない。

嶺亜の存在を知る者はごく少数だ。それもそのはず、その存在があの家主に知られでもしたら今度こそ嶺亜はこの世から消されてしまう。一度とりとめた命が正真正銘散ってしまうことは何がなんでも避けたい。だから知る者は皆、頑なにその真実を口にしないよう努めてきた。

「なんで嶺亜はあんなとこ閉じ込められなくちゃなんねえんだよ。なんで、俺達みたいにこうして自由に外に出れねんだよ」

栗田の胸のうちには理不尽な仕打ちに対する怒りのような感情がこもっていた。そこまでは嶺亜本人の口からは語られなかったのかもしれない。

挙武は知っている限りの事実だけを栗田に話した。

「…嶺亜が女じゃなかったからなんだ」

「は?なんでだよ。ますますワケ分かんねー。なんで女じゃなかったから死んだことにされてんだよ。れいあもそんなようなこと言ってたけど結局俺には分かんなかったわ」

「…古い古文書が一冊、この集落が出来た時に書かれた。それに従ってこの集落は発展した。今じゃ時代の流れに取り残されてこのザマだがな。だがその古文書の強制力は絶対なんだ。逆らうことなんて許されないし考えられない。そんな古い考えに取り憑かれた連中が彷徨ってるんだよ」

栗田は苦い表情で頭を掻く。恐らく挙武の言っている内容の3割も理解できていない。頭の程度に合わせて話すべきだった、と修正を試みた。

「俺の家とこの家、そして玄樹の家はこの集落では御三家と呼ばれてる。家の結びつきが特に強いんだ。中でもこの中村家が一番強い権力を握っている。古文書もこの家のどこかにあるらしいがその場所は家主の爺さんしか知らない」

「その『コモンジョ』がなんだってんだよ」

「そこに書かれていたそうなんだ。屋敷の千年桜が満開を迎えた時に誕生した中村家の女児と同年に羽生田家に誕生した男児を18の年に婚姻させよと。そうすれば家も集落も安泰だと。それが俺達の代なんだ」

「は?れいあとおめーが18になったら結婚すんの?できるわけねーだろ男同士なんだから」

当たり前の指摘をすると、挙武はわずかに目を細めた。

「そうだ。嶺亜がこの家で生まれた時…皆が動揺に包まれたそうだ。何せ古文書の内容どおり中村家と羽生田家は同年に子どもを授かったんだからな。胎児の性別検査の結果なんて誰にも聞かされてなかったんだ。てっきり女の子が生まれてくるかと思っていたらそれは男の子だった…」

「だったらなんだっつうんだよ…次、女の子生まれりゃそれで済む話…」

「済まなかったんだ。お互いが18になる年に結婚しなければならない…だからどう頑張ってもそれは不可能…嶺亜の母親の体はただでさえ妊娠に耐えるのが精いっぱいで母体も少し危なかったみたいだからな。二人目を同年に生むなど到底無茶な話だ。それに、また男の子が生まれてきたら…」

「そんで、どうなったんだよ…」

「家主の爺さんが激怒して、『この子は災いをこの家にもたらす』として嬰児の嶺亜を秘密裏に葬り去ろうとした。だが当然母親は反対した。しかし力の差は歴然…明日にも嶺亜の命が奪われようとしている。そんな時彼女が取った選択は…」

「れいあを死んだことにして屋根裏部屋でこっそり生活させるってことか?」

挙武は頷く。自分自身、これは後に嶺亜と会った時に彼から聞かされた話だから伝承でしかない。だが概ね真実だろう。

「んなアホな話があるかよ…俺の頭どころの話じゃねえぞ。れいあは生きてんのに…!」

「嶺亜の命を守るにはそれしかなかったんだ。自分もおかしくなったフリをして、嶺亜が生きていることを悟られるのを防ごうとした。そしたらおかしな言動で片付けてもらえるだろうから…」

「…」

「この家の中で嶺亜が生きているのを知っているのは使用人のヨネさん…神宮寺のお婆さんだけだ。彼女は一番長く勤めていて嶺亜の母親が生まれる前からいるそうだからな。ヨネさんと嶺亜の母親が代わるがわる世話をして…それと、この家に幽霊が出るという噂もワザと流した。嶺亜は夜中時々この家の庭を歩くみたいだから、どうしても誰かに目撃される心配がある。そんな時怪談話として片付けられるように…」

挙武は空を見上げた。そこから大粒の雨が降り注いでくる。

「全ては母の愛だ。我が子を守ろうとする」