「この壁の仕掛けはね、大昔に作られたみたいなんだけど、壁の両側から同時にある場所を押さないと回転しないの。だから一人だけだとお相撲さんでも開かないんだよ」

嶺亜は栗田にそう説明した。なるほど、押しても引いてもビクともしない。

「んじゃ好きな時に一人で出られねーじゃん。なんでおめーはこんな不自由な生活強いられてるわけ?」

当然の疑問を栗田がぶつけると、嶺亜は苦笑いをする。そしてちらりと龍一を見やった。

嶺亜の答えは、栗田にはすぐには理解できなかった。

「僕は本当はこの世にはいないことになってるから」

「へ…?」

足りない脳みそにはそれがどういうことなのか分からない。それを察したのか嶺亜は申し訳なさそうに手を合わせる。

「ゴメンねぇ、こんなこと言っても分かんないよね」

「分かんねえ」

栗田は素直に答える。そして

「分かんねえなのかどういうことか説明してくれよ。俺、れいあのこと知りてえから」

それもまた、素直な気持ちだった。

「おめーはここにいるのに、なんでいねえことになってんだ?なんでなのかアホの俺にも分かるように教えてくれ」

「…」

嶺亜の表情が、その時初めて少しとまどいに染まった。その後ろで龍一は不安そうに出方を窺っている。ふと気付いたが彼は人差し指と親指を交互にくるくると回していた。何かのおまじないだろうか…ちょっとうっとおしかった。

わずかな沈黙の後、嶺亜の薄い唇が動く。

「…僕はね、この家に生まれてくるはずだった女の子じゃなくて、男の子だったから殺されたの。災いをもたらすから」

「…れいあ、俺はおめーが思ってる以上にアホだからそんなんじゃ分かんねーよ。もちっと簡単に頼むわ。おめーが殺されたんなら、今ここにいるおめーは誰なんだよ。まさか本当に幽霊とか言うんじゃねーだろうな?」

「幽霊…そう、僕は幽霊なの」

「マジかよオイ…」

栗田がもう現実かそうでないのか分からなくなってきて頭がショートしかけると、嶺亜はふきだした。

「おい、冗談かよ!ったく、俺はマジでおめーのこと知りたくて…」

「ゴメン、冗談にしか聞こえないよね。でもある意味では事実っていうか…幽霊の噂を広めてもらった方が僕にとっては都合がいいからあながち嘘じゃないの。ここに来る時誰かに聞かなかった?この家に幽霊が出るって」

栗田には記憶力はほぼないも同然だ。だが、身近にいる友達が言っていたことぐらいなら思い出せる。それは辛うじて栗田の脆弱な記憶の引き出しに残っていた。

「そういや岸が言ってたっけ…庭のでかい樹の下から幽霊が出てきたって。あと道案内してくれた小学生も言ってたな。でもあいつビビリだから何かを幽霊と間違えてびびって大騒ぎしただけだと思ってたけどよ」

「岸…?もしかして、一昨日の夜大声あげて叫んだ子かな…僕はあの日龍一に会った後ちょっと庭を散歩したくなったから」

「んじゃあいつはれいあを見て幽霊だと思って大騒ぎしたわけか。ったくとんでもねービビりだよな。あ、今寝てるから明日紹介すんぜ。まったくどーしよーもねー奴で…」

「嶺亜くんのことは、誰にも話しちゃダメだ」

それまでずっと黙っていた龍一が急に声を張り上げた。大きな眼は警戒心に満ちている。どうやら嶺亜よりも彼の方が栗田を警戒しているようだ。

「んだよ、なんでテメーにそんなこと言われなくちゃいけなーんだよ、俺の勝手…」

「誰かに知られたら、嶺亜くんは本当に殺されてしまう」

「…」

有無を言わさぬ口調と、その物騒な内容にさすがに栗田は言い返せなくなる。

「殺されてしまうってどういうことだよ…」

栗田は嶺亜に訊ねた。当の彼はやれやれといった様子で龍一を諭す。

「龍一、そんなに神経質になる必要はないよ」

「でも…」

「多分、栗ちゃんは大丈夫。なんとなくだけどそんな気がするの。だからお前もそのフィンガーセラピーやめなよ」

嶺亜に言われて、龍一はようやく指の動きを止めた。

「栗ちゃんはなんでうちに来たの?」

「へ?俺?俺はかくかくしかじかでよ…んで神宮寺って奴に連れられて来てみれば挙武と岩橋ってのもいて…」

栗田の拙い説明を頷きながら聞いていた嶺亜は神宮寺たちの名前を出すと少しだけ表情を変えた。

「挙武達に会ったの…」

「へ?れいあお前挙武達のこと知ってんの?こっから出られないんじゃなかったっけ?あいつらお前のことなんにも…」

そこまで言って、栗田は気付く。挙武達もまた嶺亜のことは誰にも話さないでいるんだ。だがあやふやな記憶を掘り起こせばそれと匂わせる会話はあった気はした。

「知ってるよ。会ったこともあるしたまにラインもするの。便利な世の中だよね。もしこれがなかったら僕は外の世界のことなんにも知らないで育ってただろうな…」

机の上に置いてある携帯電話を手に取り、嶺亜はしみじみ呟く。

「挙武は賢いから安心だけど、神宮寺は馬鹿だからそのうちバレやしないかってヒヤヒヤしてる。でも玄樹が神宮寺のこと上手く見ててくれるから有り難いの」

それから嶺亜はゆっくりと時間をかけて色んなことを話してくれた。少し難しい内容だったが栗田は一生懸命聞いた。そして気付けば三人で眠ってしまっていたが龍一が午前5時に目覚ましをかけ、神宮寺のお婆さんに壁を開けるのを手伝ってもらって部屋に戻った。

「…嶺亜様のことは誰にも話さないでおくれ。お友達にも…もしものことがあったら…」

懇願するように、お婆さんは栗田の眼をじっと見つめて言った。

栗田は頷き、なんとなく別れ際に龍一の尻をもう一度蹴って岸たちが眠る部屋へと戻った。

 

 

岸は寝起きがすこぶる悪い。いつも目覚ましを3セットくらいしてそれでも起きないので家族や友達に起こしてもらっている。自分では記憶はないが、かなり凶悪モードになっているらしくその度に非難を受けるのだ。

だが今朝はそんな岸より寝坊している奴がいた。部屋の隅でまだいびきをかいて栗田が爆睡中だ。

「珍しいね。栗田、起きるのわりと早いのに」

ストレッチしながら颯が呟く横で倉本も頷いた。

「ほんと。アホだから早起きなのにどうしたんだろ。疲れてんのかな」

挙武と岩橋、そして神宮寺の三人はすでに起床していて感心なことに配膳の手伝いをしていたらしく朝食を運んできてくれた。

「なあ、そのアホいい加減起こした方がいいんじゃね?飯冷めちまうし」

神宮寺の指摘に、それもそうだと颯が栗田の体を揺さぶった。何度か「うっせー!ねみーんだよ!」の抵抗にあうが、倉本が栗田の分の朝食に手をつけようとする直前にようやく起きてきた。

「くぁ…」

大欠伸で緩慢な動きと共に栗田は箸を進める。彼は食が細いから結局倉本が半分以上奪って食べた。

「どうしたの栗田、そんな眠そうにして。あ、分かった。昨日俺らが寝た後遅くまで携帯でゲームやってたんでしょ?」

麦茶をすすりながら颯が問うと、栗田は頭を掻きながら否定する。

「ちげーよ。俺は昨日…」

しかし何故か、そこまで言って栗田は口をつぐむ。言いたいことは余さず全部放つ彼らしくない様相だ。岸は不思議に思う。

「なんだ?蒲団の中でオ○ニーでもしてたか?皆で寝てる時にバレずにやるオ○ニーって興奮するもんな?そうだろ?そうなんだろ?お前俺と同じような匂いするしな」

「…勇太、そういうサイテーなのは君だけだから。栗田に失礼だよ」

岩橋が神宮寺の耳を引っ張る。「いてて…やめろ。俺が悪かった」と神宮寺はあっさりと頭を下げた。岩橋は頼りなさげに見えてやはり年上なのだな…と4人は思う。

「やっかいになっていて何もしないというのも気が引ける」

律儀な挙武がそう言って、何か手伝うことはないかと使用人に訊ねると、最初は「羽生田家と岩橋家の方にそんなことをさせるわけにはいきません」と挙武と岩橋は断られたが、神宮寺が彼の祖母から厨房で皿洗いを頼まれたのでそれを手伝うことにした。親戚が泊まっているせいかなかなかの量だった。

「おやおや、感心だねえお前さんたち。まあ勇太が気に入るんだから悪い子じゃないような気はしてたよ。手を休めてお食べ」

神宮寺の祖母である使用人の老婆が柔和な表情できなこ餅を差し入れてくれた。岸は初めて会った時は彼女が怖くて仕方がなかったがなんとなく打ち解けてきたせいもあってもうそんな感情は消えていた。

倉本は大喜びですごい速さできなこ餅をその口の中に放り込んでいく。

「こんな美味い和菓子が毎日食べられるんなら俺、ばーちゃんの孫になろっかなー」

「おいおい気軽に言うなよ。ああ見えてうちのばーちゃんは怒ったら怖いんだからな。俺なんか小さい頃どんだけ泣かされたか…」

「それは勇太がバカなことばっかりするからでしょ。女の子のスカートめくったり教室にエロ本持ち込んで先生に咎められたり…ほんとにもう勇太って…」

「岩橋は神宮寺のお姉さんみたいだね!挙武は集落の学校には通ってないんだっけ?」

颯が訊ねると挙武は頷く。指についたきなこを舐めながら

「毎日2時間かけて通ってるんだ。非効率的な話だが車内のDVDで見る映画が俺の楽しみだな」

「へえ~さすが金持ち。羨ましい話だな。俺なんか毎日満員電車に押し潰されながら通ってたよ…」

もぐもぐと口の中に餅を入れながら岸が回想すると挙武は反論した。

「俺はその満員電車とやらに乗ってみたい。何処へ行くにも車しかないからな。たまには途中で降ろしてもらって電車に乗りたいがそれも許されない。不便な話だ」

「金持ちには金持ちの悩みがあるんだなー。ま、その点神宮寺にはなさそうだけど」

「おい岸くん聞き捨てならねーな!俺にだって悩みはあるぞ。例えば…」

「言わなくていいよ。どうせ下らないことだから」

岩橋が神宮寺の口を押さえる。ふがふがともがき、それが爆笑をさらっている。だが…

「おい栗田、どうしたんだよお前、なんか変だぞ。きなこ餅も食わねえで」

そう。こんな時真っ先にアホ笑いをしてアホ騒ぎをしてアホばっかりやる栗田がさっきからほとんど喋っていない。うるさいくらいに鳴り響くあの笑い声はまるで壊れたスピーカーのように沈黙している。

「どうしたん?腹でも壊したのか?きなこ餅ひとっつも食ってねーじゃん」

指摘しながらも倉本はもう何個目か分からないきなこ餅をまた口に放り込む。栗田は最初の一つをまだその手に持っていた。

「ほんとだね。昨日はもっと明るかったのに…具合でも悪いの?」

岩橋が顔を覗きこんでも栗田は「いや」と囁くような声で首を緩く降るだけだった。