夕飯を済ませた龍一は部屋に戻ると大きな溜息をつき、うなだれた。

疲れている。

疲労が大波のように押し寄せて自分を飲みこんでしまっていた。やはり人が大勢集まる場は苦手だ。その疲れが今更のように全身に絡みついてくる。

携帯電話を見る。返信はない。だが既読のマークが付いていた。いつもの通り、読んだということだけを無愛想に伝えてくる。だが断りの返信がないということは龍一の送った内容を受け入れたという意味であることもよく知っていた。

そこではっと身を起こした。知らぬ間に眠りに落ちようとして慌てて目覚ましをセットする。そして再びその身を畳の上に置いた。

「…」

一瞬で眠りに墜ちてしまったのか控えめな目覚ましの音と共に龍一は気だるさと闘いながら身を起こした。セットしておいて正解だった。でないと朝まで眠りこけていただろう。

目覚ましを止めて時刻を確認する。午前1時50分。もうあたりからは何の物音も聞こえない。皆眠りについた頃だ。雨音も聞こえないから雨はあがったのかもしれない。

肩を数回回し、首を左右に捻って硬くなった筋肉を少しだけほぐすと龍一は立ち上がる。深呼吸を一度だけして襖にそっと手をやりスライドさせた。

音を立てず、慎重に

廊下に出ると冷え冷えとした空気が流れ込んできた。春が訪れようとしているとはいえまだ夜は冷える。足の指先が床の冷たさに小さく悲鳴をあげていた。靴下をはいてくれば良かった…と今更ながらに後悔をする。

廊下は真っ暗だ。しかし足元にほんのわずかな常夜灯が灯っているから道のりはそれで分かる。すでに幾度となく辿ったコースだから自然と体が覚えていた。

心配だったのは、今この屋敷の中には親戚連中と見知らぬ少年が数人泊まりこんでいることだった。夕飯後に使用人が囁き合っていたのを聞いた。集落の少年もどうやら泊まっているらしいことも老婆から聞いた。いつになく、この家には人が多く滞在している。

だから極力神経を研ぎ澄ませて誰もいないか、見つかりはしないかに注力する。もちろん、その危険があるのなら自分の部屋に戻るのみだ。

だが幸いにもこの広い屋敷の中では誰にも出会うこともなく、また誰かが動き回ることもなく目的のままに龍一は行動することができた。

持ってきた携帯電話を覗き、時間を確認する。午前1時57分。あと3分だ

ぼんやりと裏庭を見下ろすと、千年桜の樹が沈黙している…気がした。暗い上に霧がかかっていて見えないがその根元にある墓碑銘も静かに佇んでいるのだろう。

樹はもう蕾が膨らんでいたから開花はもうそろそろである、とついこの間ニュースでやっているのを見たが例年より遅いことには違いない…。

三日後…いや、もう明後日か…の誕生日に開花が間に合うだろうか…ふとそんな心配が駆け巡る。あの桜の樹は彼女の生きた証のようなもの。4月2日の誕生日に満開を迎え、一週間で散りゆく命…

だがその樹は花が散り終えた後も生き続けている。それこそが真理だ。

樹は生きている。そうして毎年花を咲かす。そう、一年に一度、1週間だけ…

龍一は携帯電話を見る。午前2時ジャスト。

目の前には行き止まりの壁。漆喰の無骨な茶色いそれがある。その中央あたりに手をかけた。

音もなく壁は反転する。

その際にできた隙間からその姿が覗く。一年ぶりの再開を懐かしむ隙も与えず

「だあれ?」

それは自分に発した疑問ではなかった。視線はもっと向こうに投げかけられている。

一瞬で龍一は察知した

 

 

 

栗田は不思議な感慨を持ってその人物を見つめる。記憶力のない彼にしては奇跡的にその記憶の引き出しはすぐに開いた。

今自分と目が合っているその人物は昼間、ここに来た時に廊下ですれ違ったこの家の女性にそっくりだ。

だが女性ではない…と思う。髪は短いし体格も女性のそれとは少し違う。背は栗田より若干低そうだが年は同じくらいだろう。

常夜灯のわずかな光に溶け入りそうなその儚い姿はしかし、もう一人の人物によって遮られてしまう。

「…」

目の前に立ちはだかるようにしてその人物を庇うように手を広げた。その眼は警戒心に満ちている。

「龍一、その子はだぁれ?」

もう一度、静かな…少し鼻にかかる声変わりを済ませた声が響く。龍一と呼ばれた栗田の前に立ちはだかった長身の少年は動揺を濃く含んだ低い声で返す。

「…知らない…」

「なぁんだ、龍一が連れてきたんじゃないんだ」

龍一が動揺しているのとは対照的に、ひどく穏やかな、冷静な声で後ろの少年は呟く。栗田がどうするべきか足りない頭で考えている間にその少年は龍一の脇からじっと栗田を見つめてくる。

綺麗な顔だ

シンプルにそう栗田は思った。

どこかこの世のものではない、浮世離れした独特な雰囲気があった。それは昼間に見たあの女性の印象もあるのだろうが少し違う。彼女は精神世界を切り離された感じがしたがこの少年はそうではない。ちゃんと「生きて」いる。上手くは言えないがそんな印象を抱いた。

しんとした静寂の中で栗田が意識を保つのに若干気を張っていると、しかし少年はうっすらと微笑みすら浮かべて龍一の肩に手をやる。

「龍一、大丈夫だよ。多分この子はそんな悪い子じゃなさそうだから警戒しなくていいよ」

「…だけど…」

「なんていうの、名前」

問われて、栗田は意識を引き戻す。涼しげな目もとはまさに月の光そのもの。ぼんやりとして妖しげな光を放つ。吸い込まれそうになるのをこらえながら自分の名前だけを名乗った。

「クリタケイ…」

少年は栗田の名を反復する。そしてまた微笑んだ

「可愛い名前だね」

「おめーはなんて名前なんだよ…」

ようやくそれを口にすることができた。自分でも何故こんなにペースを乱されているのか分からない。栗田は初対面だろうが誰だろう臆することも遠慮することもなく話すことができる。今までだってそうだったしこれからもそうだ。だが今、それが乱されている。

疑問は山のように湧いて出てくるのにそれらがなかなか声になってくれない。展開に付いて行くのが精いっぱいだった。

「僕?」

少年は微笑んだまま首をわずかに右に傾ける。

「僕はね…」

「駄目だ。嶺亜くん、まだこの子が信用できるかどうか…」

少年の声を遮って、龍一と呼ばれた長身が首を振る。だが栗田は皮肉にも彼のおかげでペースが急速に引き戻された。

「アホかてめーは!!てめーが答えてんじゃねーか!!れいあ、れいあだな!おめーはれいあって言うんだな?そうだろ!?」

詰め寄ると、長身はしまった、といった風に目を見開き口を押さえた。嶺亜と言う名の少年は一瞬目を見開いた後に笑いだす。

「あはは、面白い。龍一お前本当にうっかり屋だね。それで今までよく誰にもバレずにいられたね」

「…だってここに来ても俺はほとんど誰とも話さないから…」

「そっか。それもそうだね。…栗田くんだっけ?そうだよ。僕の名前は嶺亜。中村嶺亜っていうの」

嶺亜はひとしきり笑った後、栗田にそう言った。

「栗田くんとかやめろよ。背中かゆくなる!もうずっとそんな他人行儀な呼ばれ方したことねーよ。栗田か栗ちゃんでしか呼ばれてねー。くん付けとか気色悪いからやめろよな」

「栗ちゃん…」

長身がボソっと呟いた。そうすると何故か反射的に栗田は蹴りが出る。

「いて!…なんで蹴られ…」

「なんか分かんねーけどおめーには栗ちゃんって呼ばれたくねー。あと俺はおめーの名前には興味ねーから別に答えなくていいぜ」

「…なんで俺だけ…」

「あはははははは。龍一可哀想。栗ちゃんだっけ?この子はね、谷村龍一っていうの。僕の親戚だけど見てのとおり身長は高いのに気は小さくて抜けてて暗くてネガティブでね…でも…」

それまでにこにこと笑っていた嶺亜の瞳が急に翳りを見せる。

そしてその薄い可憐な唇からはこう放たれた。

「でも龍一は僕が生きていることを知ってる数少ない人なの」

その言葉の意味が、栗田には全く理解できなかった。