「…ダメだ、麓の町に通じる唯一の道が土砂崩れで通行止めになってた。復旧はいつになるかまだ分からないそうだ」

夕飯の席で親戚の誰かが苦々しい口調で呟く。法事はまだ終わっていないが、予定のある者が帰路につこうと出発した矢先のことだ。

季節外れの豪雨で山道の斜面が土砂崩れを起こして通行止めになっており、残っていた親戚は皆足止めを食らう。

「参ったな…明後日から仕事に行かなきゃならないのに…」

叔父が頭を掻きながら片目を瞑って携帯電話の画面を見つめていた。そして凄い速さで操作を始める。恐らくは職場の上司や同僚に事情を説明するべくメールを打っているのだろう。

「龍一、塾には連絡しておくからお前はここでできるだけの勉強をしておきなさい」

両親に言われ、生返事をして龍一は夕飯を口に運ぶ。

叩きつけるような遠慮のない大雨が轟音を奏でていた。しかしながら、誰もが憂うこの自然の仕打ちを龍一はそう憂いてはいなかった。

滞在が伸びれば、それだけ…

ポケットに忍ばせておいた携帯電話をいじろうとしたが、姉に「食事の席で携帯電話なんてやめなさい」と見咎められ、やむなく席を立って廊下に出た。

「おや、龍一様。どうかなさいましたか?」

食器を運んでいた使用人の老婆に声をかけられ、またも龍一は携帯電話から目を離さなくてはならなくなった。

「いえ…」

「お帰りになられるはずだったのにとんだご不運でございます。せめて滞在中は不自由のないよう努めますので何か必要なものがおありでしたら遠慮なくお申しつけ下さいね」

老婆は柔らかい口調で龍一を労ってくれた。彼女はこの家に勤めて長いらしく、龍一も子どもの頃からこの家に来る度に優しく声をかけてもらっているから人見知りでも少しは構えずに話すことができた。

だから、そう躊躇わず気になっていることを訊ねた。

「…道路の復旧はどれくらいになりそうなんですか?」

龍一の質問に、老婆は困り顔で答える。

「今の段階ではなんとも…。ただそう被害が大きいものでもなかったようですけど…あそこが通じないと集落の者にとっても一大事ですから急いでもらえるとは思いますが…」

「そうですか…」

答えながら、龍一はどこかでその復旧が遅れればいいのにとすら思い始めた。法事が終われば後はもう何の義務も残されていない。

龍一の返事をしかし老婆は少し曲解したようだった。

「こんなところに閉じ込められてはさぞかし気が滅入るでしょう…もし良かったら私の孫が今別室にいますが他にも楽しそうなお友達を連れていたからもし良ければご紹介しましょうか。同じくらいの年のお友達をいた方が気が紛れるのではないですか?」

老婆は気遣いで言ってくれているのだろうが、人見知りの龍一にとってはまっぴらごめんだ。やんわりと断り、トイレに行くフリをしてまた携帯電話を取り出す。

やっと目的の文面を打ち終えたところで曲がり角で誰かにぶつかりそうになった。

「あ、すみません…」

頭を下げると、相手は龍一を一瞥して同じように頭を下げた。知った顔だが名前が思い出せない。親戚ではない、この集落の御三家と呼ばれる名家の跡取り息子だ。聡明な顔をしていた。

法事の最中だから墓参りに訪れたのだろう。親戚だけでなく、集落の中のこの家に縁深い者が少なからず墓参りに訪れることは知っていた。

確か彼は、法事の主役であるこの家の亡き女の子との許嫁だったっけ…

古い記憶を呼び起こし、皮肉にもその契りは交わされなかったことを思いながら龍一はメールの送信ボタンを押した。

 

 

「…これも何か見えない力が働いたのかな…まさかまたここに泊まることになるなんて…」

岸は再び泣きそうになる。昨夜の恐怖が蘇りつつあり、折角用意された夕飯もあまり進まない。そうこうしているうちに倉本にほとんど食べられてしまった。

「しかし参ったな、土砂崩れとはな。ついてないなお前ら」

窓の外にごうごうと流れる大雨を見つめながら挙武が言う。

「危ないから僕達も雨がやんでから帰った方が良さそうだね。川が氾濫したら車でも危ないから」

「玄樹の言うとおりだぜ。ま、お前らといりゃ暇しねえし、俺としては狭い我が家よりこっちの大広間の方が居心地いいからな」

大の字にひっくり返りながら神宮寺が呑気に呟く。彼らもまた、念のためここに泊まることになった。

7人でじゃれあっているとあっという間に時間はすぎる。欠伸をした栗田が時間を見るともう12時を過ぎていた。蒲団が運ばれて来て7人は就寝態勢に入った。

「…よし、トイレには行った。水分もひかえた。これで朝までぐっすり…神宮寺、挙武、俺から離れないでね」

岸は準備万端で神宮寺と挙武に挟まれて蒲団に入る。もう目覚めても絶対にトイレには行かない。幽霊なんか出ない。お化けなんてないさ。お化けなんて嘘さ。寝ぼけた岸が見間違えたのさ…

だけどちょっとだけどちょっと怖いからもし出てきたら神宮寺と挙武を起こせばいい。そう自分に言い聞かせて眠りに落ちる。

「…」

その夜目が覚めたのは栗田だった。いつもは一度寝てしまうと朝まで爆睡なのに、何故かフっと目が開く。

室内には他の6人の寝息やいびきが響いているからけっこう時間はたっていると思われる。

目が覚めたのは尿意かもしれない。そういや岸が水分をひかえているのを見て大笑いしながらペットボトルを開けたからいつもより水分を多めにとったせいだろう。起きあがってトイレを目指した。

栗田にはあまり暗闇やお化けに対する恐怖心はない。そんな機能は持ち合わせていない。怖がってるフリをしてバカ騒ぎすることはあっても本当の恐怖に遭遇したことは今までなかった。だから何も考えずにトイレを目指してずんずん進む。

しかし恐怖心はなくても記憶力もなかった。一度案内されたはずのトイレの場所が分からない。そもそもほぼ真っ暗だから自分がどこにいるのかすら分からなかった。

廊下の足元にほんのわずかな常夜灯が灯されているが全く頼りにならない。この屋敷は広すぎる。歩き回っているうちにすっかり眠気は吹っ飛んでしまった。

「お、あったあった!」

だがなんとかなるものでようやくトイレは見つかった。用を足して来た道を戻る…ごく簡単なことだがやはり栗田の頭の中身はそういった能力に欠けている。すぐに自分がどこにいるのか分からなくなった。

「ったく、広すぎんだよあー腹立つ。叫んだから誰か出てきてくれっかな」

短絡思考はこういう時に便利だ。あちこち動き回るより誰かに出てきてもらって案内してもらう方がいい。怒られようがなんだろうが知ったこっちゃない。

そうして息を吸い込むと、それを栗田の聴覚は捉えた。

足音

押し殺してはいるがわずかな足音が聞こえる。

しめた。誰かがいるなら話しかけてそいつに案内してもらって…

そういった考えが脳裏をかすめ、曲がり角を曲がった時だった。

長い廊下が続いている。屋敷のどちら側なのかは定かではないが端にあたると思われる。片側は一面のガラス戸だったが外の景色は見えない。今気付いたが雨は一時的にあがっていて、代わりに靄のような霧が広がっていた。

「…?」

暗闇だが、闇に目が慣れたのと常夜灯のほんのわずかな灯りがそれを映し出した。

誰かがいる。

だがその先は行き止まりだ。

その誰かは壁に向かってしばし静止した後、壁に向かって手を出した。

「…?」

壁だと思っていたものが、音もなくくるりと反転する。

壁の向こうにいたのは…

「…!」

幽霊?

そう疑ってしまうほどに、ぼんやりと灯されたその姿はこころもとなく儚げだった。

恐怖心は全くと言っていいほどに沸かない。目の前で起こる不可思議な現象に認識が付いて行かないから、そんなものを呼び起こしている余裕もなかった。

引き返すか?わけわかんねーことがあってよ…って明日の朝にでも岸たちに笑い話として話してひと笑い取って…

だが体は反転してくれない。まるで金縛りにでもあったかのように動かなかった。

「…」

闇の向こうで、目が合った。

「だあれ?」

その視線の主が、か細い声で問う。ほんのわずかな物音にも掻き消されてしまうかのような、囁くような音量だが静寂がはっきりとその声を浮き立たせた。

栗田が声を発する前に、もう一人…その声の主と栗田の間にいた人間が物凄い速さで振り向いた。