「勇太、帰りはお前が案内なさい。くれぐれも粗相のないようにね」

厳然と言い放って老婆は部屋から去る。

携帯電話はすぐに見つかった。窓辺の桟の上に置いてあった。それを倉本が取りあげると颯がその先の景色を見ながら岸に問う。

「桜の樹なんて見えないよ。岸くん、どこで見たの?」

「あ、反対側かも。俺迷っちゃってさ、どこをどう歩いたかは定かじゃないんだけど…」

「反対側だよ。ここは屋敷の正面側だからな。桜の樹は裏庭に生えてんだよ」

神宮寺が端的に答える。彼の表情は何故かあまりすぐれなかった。

「なー、さっきの綺麗なねーちゃん…奥さまって言われてたけどこの屋敷の人なん?」

栗田が畳の上に大の字になって問いかける。岸はさっさと出たかったがなんだか休憩モードに入ってみんな座り始めた。

「…ん、ああ。まあな」

曖昧な答えに、倉本が疑問を並べ始める。

「綺麗だけどさ、なんか雰囲気おかしくね?どっか遠くの方見てる感じがしたし、ほけーっとしててさ。ばーちゃんもあの女の人にすげー気ぃ遣ってなかった?まあ奥さまだったら当たり前かもしれないけどさ。あと、あの子が喜んでるって言ってたけど子どもとかこの家にいんの?」

食べ物のことしか考えてないように見えて、倉本は意外と観察眼が鋭い。岸も座って話を聞いた。

「…ま、お前ら悪い奴らじゃなさそうだから話すけど、あんまよそで言うなよ」

神宮寺はあぐらをかいて、少し苦々しい顔で話し始めた。

「あの人はこの屋敷の奥さんで、年はうちのかーちゃんとそう違わねえはずだから40前後だろうよ。美人だから若く見えるけどな。それとこの家には子どもはいねえよ。俺が生まれる半年くらい前に死んだんだ。生きてりゃ同い年だったけどな。生まれて一週間で亡くなったって聞いてる」

「え…?でも、あの女の人…」

「あんま言いたくねえけど…あの人はまだそれが受け入れられねえんだよ。ショックでああなっちまって…今でもその子が生きてるって思いこんでてそうして生活してる。周りもそれに合わせてるんだ」

「そっか…法事っていうのはその子の…あのおじさんが生きてれば俺達と同い年くらいって言ってたねそういえば」

颯がしんみりと呟く。優しい彼は少し辛そうな表情になっていた。

「法事なんてやったら死んだって事実を突きつけられるだけだから、周りはみんな反対してるけどこの家の主の爺さんがどうしてもやるって聞かねえんだよ。誰も爺さんには逆らえねえし…だから毎年法事の頃は一層おかしくなっちまうそうだ」

岸は不謹慎な気もしたが、どうしても気になったことを口にした。

「俺が昨日の晩見たのってその子の幽霊…?そういえば綺麗な顔してたかも…」

「アホか。幽霊なんているかよ。それはビビリのお前が見た幻想だろーが」

ばしっと後頭部を栗田にどつかれる。しかし意外にも倉本が同調を見せた。

「けどよ、小学生たちがこの家に幽霊が出るって噂してたしあながち岸がびびってたせいだけでもないかもよ。今法事してるみたいだから帰ってきてるんじゃあ」

「や…ややややややややめろよ倉本!思い出しちゃうじゃん!」

岸が叫ぶと、ガラリと襖が開いた。そこに立っていたのは驚いた表情の二人の少年だった。一人は鋭い眼差しをした聡明そうな少年、もう一人は中性的な雰囲気のする少年だ。

「挙武、玄樹。お前ら…」

神宮寺が驚いて立ち上がった。知り合いのようで、彼を見た二人の少年は少し安堵した表情に変わった。

「…話し声がするから誰かと思って開けてみたら…何をやってるんだ神宮寺。この人たちは?」

聡明な見た目の方が神宮寺にそう問いかけた。

「ああ、この人らはよそからやってきた人らで…それよりお前らは?…ああ、墓参りか。御苦労さん」

「よそからどうしてこの家に…?」

中性的な方が若干怯えを含んだ眼差しでそう問いかける。神宮寺は彼に歩み寄って安心させるかのように肩に手を置いた。

「用があって来たわけじゃねーし親戚や知り合いじゃねーよ。山道で迷ってるとこをこの家の親戚に助けてもらって泊めてもらってたんだとよ。んな怯えんな。悪い人らじゃねーよ。むしろ楽しいくらいだ。こっちの汗だく涙目が岸くんで、こっちのうちのばーちゃん並にきたねー声が栗田で…」

神宮寺は4人を紹介し始める。最初こそ警戒していた2人だが話すうちに徐々に打ち解けてきた。

聡明な見た目の少年は羽生田挙武と名乗った。この集落から2時間かけて都心の学校に中学校から通い続けているという。

そして中性的な方は岩橋玄樹と名乗った。ごつごつした名前に似合わずまるで女性のようにしなやかで繊細な、柔らかい雰囲気の少年だ。三人は幼馴染みでよく遊ぶ間柄らしい。

「俺は庶民の子だけどこの二人の家はここと同じくらいデカい所謂ボンボンってやつだよ。ほんと、肩身が狭いぜ」

冗談めかして神宮寺は笑う。そういえばさっきひどくでかい屋敷を見たけどあれかな…と颯が思っているとまた襖が開いた。

「まだいたのかい。勇太、早くおし。…おや、挙武ちゃんに玄樹ちゃん。お墓参りに来てくれたのかい?ありがとうね」

老婆が神宮寺をたしなめた後、挙武と玄樹ににっこりと笑顔を老婆は向けた。こうして見ると穏やかな婆さんのように思える。よそ者に厳しいだけだろうか。

「せっかく来てくれたんだしお茶でも飲んでいくかい?おはぎを作ったから食べておくれ」

「おはぎ!?」

倉本の目が輝く。それを颯が「俺達にまでくれるわけないでしょ」とたしなめたが意外な展開が訪れた。

「勇太が気に入るんだったらお前さん達もそう悪い子じゃないようだから、食べたいなら持ってくるけどどうだい?」

「ありがたくご馳走になります!!」

倉本が代表して深々と頭を下げ、笑いが起こる。程なくしてお茶とおはぎが運ばれてきた。

 

 

広い庭を目的もなくぶらぶらと歩く。この家の敷地はとにかく広い。屋敷も迷路のようだが、庭もまた広大だ。ちょっとした庭園のような広さのその空間には確かに春が訪れようとしていた。鳥の囀りが停滞した頭の中をほんの少し癒してくれる。

池の中には立派な鯉が泳いでいた。1匹、2匹…なんとなく数えてみたが動きが早くて目で追いきれない。

「龍一くん」

誰かに呼ばれて、龍一は振り向く。そこには叔父が立っていた。

「ヨネさんがおはぎを作ってくれたよ。ご馳走になろう」

龍一はあんこが苦手だった。しかし言い出せないのでそれに従い、近くの縁側に座って叔父とお茶をすすった。

「早く帰りたいだろう?こんな湿くさいところなんてうんざりするだけだ。正直、私も気が進まないよ毎年」

「いえ…」

答えながら、龍一はおはぎに手をつけようか迷う。食べないと失礼だが苦手だ。その葛藤と闘っていると叔父は勝手に喋り始めた。

「あの爺さんも人が悪い…毎年あの子の命日前後にこんな法事をやるなんて…奥さまが気の毒で仕方がない。彼女は実の孫だろうに、なんだってこんなことを…」

この家の家系は色々と複雑だ。家主の爺さんは90近いがその子である人はもう他界している。家主の孫娘にあたる女性はこの地で子を生んだがその子は1週間しか生きられなかった。そのショックで精神を病み、彼女の夫もまた子を追うようにしてそれからすぐに他界したらしい。龍一は会った記憶はない。

今家主の爺さんとその女性だけで暮らしているが使用人の類も多く、この広い屋敷には住み込みも含めて数人がいると聞く。

「生きていれば…羽生田さんのところの倅の許嫁として18で結婚するはずだった…それも叶わずこうして毎年誰も望んでいない法事を開かれていると知ったら…彼女は天国でどう思うだろうか」

龍一は複雑な思いでそれを聞く。おはぎには手をつけなかった。

ふいに、鳥の囀りとは全く異なる声色が耳を撫でた。微かに風に乗って響いてくるそのかぼそい歌声に、ふと顔をあげると空は一面鉛色だった。

「…可哀想に…」

叔父は眉根を寄せた。それはあの人の歌声だ。亡き子を偲ぶ歌…繊細でもの哀しいメロディに耳を塞ぎたくなった。

「あの子が本当に成仏できるとしたら…こんな法事がなくなってからだろうな…」

深い溜息と共に、叔父は呟いた。そしてそれを切り替えスイッチのようにして膝を叩く。

「すまないね。こんな鬱々とした話ばかりして。もっと楽しい話をしよう。そうだ龍一くん、学校の話を聞かせてくれないか?高校三年生になるんだし、彼女の一人でもできたんじゃないのか?」

「え、いや、俺は…」

男子校ですけど、と言いかけたが叔父の声がそれに被さる。

「恥ずかしながら、私の初恋は高校三年生でね…綺麗な女の子だったよ。あの頃は勉強ばかりしていて異性のことなんて考えたこともなかったから色々と不器用で…まあその恋が実らなかったからまだこうして独身なんだけどね…。龍一くんは何かと自分と被るところが多いから、なんだか放っておけなくてね。迷惑な話だと思うが」

「いえ、そんなこと…」

叔父は母の話によると確かに独身だ。有名大学を出て官僚になったと聞く。聡明で穏やかな雰囲気があり、龍一はこんな人になれたら…と思うことがある。

内向的で人見知りの自分に何かとかまってくれたし人あたりも柔らかいからそんな自分でも少しは打ち解けることができている。それでもこの程度ではある。さっきからほとんど片言しか返していない自分に龍一は気付く。

「君は好きな人と一緒になって、幸せになってほしいと思っている。勝手な願いだけどね」

龍一にはあまり想像がつかなかった。今を生きるのに精いっぱいだしこんな性格の自分が誰かと一緒になるなんて、それはお伽噺よりも現実味のない話だ。

好きな人…

それはどういう感情だろうか。

もしそれが、救いたいと願う感情に似ているのならば確かにその人は龍一の中に存在していた。

ぼんやりとそれを思い浮かべ、空を見上げるといつの間にか重苦しい鉛色に染まっていて、そこから大粒の雨が放たれ始めた。