「ったく、ほんとしょーもねービビリだな。それでも二十歳かよ」

栗田が欠伸まじりに岸に蹴りを入れる。7時前だったが半分追い出される形で朝ご飯などもちろん食べずに屋敷を後にした。まだ薄靄が辺りに広がっている。

「だって本当に見たんだもん!!青白い顔した幽霊がこっちをじいっと見て…思い出しただけでもゾッとする!!!ああああああもうほんとに怖かったんだから!!!!」

「あーハイハイ。どうせ干してあるシーツかなんかだろ。ほんと、こんなビビリだとは思わなかったぜ。あー腹減った」

お腹を押さえて恨みがましそうに倉本が呟く。栗田も倉本も昨晩とてつもない悲鳴をあげて家の中を騒然とさせた岸に対して非難GOGOだったが颯だけは真剣に岸の話を聞いていた。

「そんなことがあったんだね岸くん…そりゃあ怖かったよね。やっぱり俺が付いて行った方が良かったかな…」

「そうしてもらえば良かった…変なプライド持たないで…」

「ハタチにもなってトイレ付いて行ってもらうとか幼稚園児かよ。ったく笑えねーどうすんだよ今から」

もう一度栗田は岸のお尻を蹴った。情けない最年長なんか頼れない。足りない頭で色々と考えてみた結果…

「ヒッチハイクしかねーな、こりゃ」

しかし肝心の車が通りかからない。昨日は暗かったからあまり分からなかったが相当な田舎だ。人すらこの時間帯はほとんどいない。気温がそれほど低くないのが不幸中の幸いだ。

「とりあえずよ、食いもん探そうぜ。腹が減ってはなんとやらだからな」

倉本の提案で、店を探すことにした。いくら田舎でも日用品や食料品が売っている店がどこかにあるはずだ。まだ開店はしていないだろうがとにかくそれを見つけなくては。足の確保はその次だ。

「町のことは町の人に訊くのが一番。あ、あそこに人がいる。おーい、すみませーん!」

猪突猛進の颯が通りかかった小学生の三人組に話かける。みんな坊主頭で野球の道具を持っている。

「お兄ちゃんたちどっから来たの?」

少年達は岸たちがこの集落の人間ではないことをすぐに察知したようだった。恐らく人口も少なくほとんど全員顔見知りなのだろう。

「いや、俺達は昨日山道で車エンストして困ってたらこの集落に親戚の法事に来たっていうおじさんの車に乗せてもらって…すっげえ豪邸で昨日ひと晩その家に泊めてもらったんだけどこのビビリが夜中に何かを幽霊と間違えて大声出して騒いだもんだから追い出されちゃってさ」

倉本がワンブレスでひどい説明をするもんだから、岸は小学生にまで笑われると穴があったら入りたい衝動に駆られる。

だが予想に反して少年達は顔を見合わせて神妙な面持ちになった。そしてその中の一人が倉本に訊ねる。

「その豪邸って…庭にでっかい桜の木があるとこ?」

「え?そんなんあったっけ」

倉本は首を傾げているが岸は思い出す。そういや巨大な木が庭にあった。その直後幽霊を見たからよく覚えている。

「あったよ!花が咲いてないから分かんないけど…でっかい木が庭にあった!そっから幽霊が…」

そう説明すると少年達は「やっぱり…」と顔を強張らせた。

「んだよ、なんかあんのかよあの家に」

栗田の問いに、少年達は答える。

「その家、幽霊が出るの本当だよ。集落の行事とかであの家に泊まった人が何人か見たっていうし、あの庭の桜は人の生血をすすって大きくなってるんだって。白い花しか咲かないはずの種類なのにあそこの桜はピンクの花だから」

「ま…ままままままままじ…?」

岸はまた背筋に悪寒が走る。まさか本物を見てしまったのか…泡を吹きそうになった。

「その幽霊、生まれてすぐに死んだあの家の子なんだよ。捕まったら殺されちゃうからお兄ちゃん、運が良かったね」

「ひえぇ…」

鳥肌が止まらない岸に同調してくれるのは颯だけで、栗田と倉本は相変わらず笑い飛ばしていた。

 

 

古い木と畳の青臭さ

この匂いを嗅ぐといつだって思い出すことがある。あれは、小学校に入る少し前の彼女の七周忌の日…

部屋から見える墓碑銘を、谷村龍一は空虚な心で見つめる。祀られているのは一体誰なのか…そんな無意味な自問いと共に

「龍一様。朝ご飯のご用意ができましたので、食堂にいらして下さいませ」

しわがれた声が襖の向こうで響く。返事をして龍一は部屋を出た。

食堂にはすでに親戚一同が集まっていて、龍一は最後に席についた。白米と煮魚の匂いが鼻腔をくすぐる。しかし龍一は魚が好きではなかった。

「昨日はよく眠れたかい?少し疲れているね。顔色が冴えない」

昨日、東京から車を飛ばしてやってきた叔父が龍一の顔を覗きこんで言った。それに答える前に姉の声が横から響く。

「この子はいつもこんな顔です、叔父様。特別疲れているわけでもなんでもありませんからお気づかいなく。龍一、ちゃんと残さず食べなさいね。17歳にもなって好き嫌いなんて恥ずかしいわ」

まるで母親のように口うるさい姉の態度に辟易しながら龍一は渋々魚を口に運ぶ。

「龍一君達はいつからここに?学校はもう春休みに入っているだろう?」

卵焼きを口に運びながら問う叔父に、またしても姉が先に答える。いつだって彼女は龍一の一歩先に声を出すから自然と無口になってしまった、と自己分析している。もっとも姉のせいばかりではないのだろうが…

「三日前からです。私も大学が休みだし、父も母も都合をつけて一日遅れで来ました」

「そうか…ご苦労さん。お二人とも忙しいのに大変だね」

「仕方ありません。大事な法事ですから仕事よりも優先しなくちゃいけないと二人とも言ってます。もちろん私も龍一も同じです。たまたま春休みの時期ですけど、そうでなくてもこちらを優先して来るつもりです」

姉の模範的解答に叔父が感心し、両親に賛辞の言葉をかけていると龍一は箸でつまんでいた卵焼きを床に落としてしまった。慌てて拾おうとすると笑い声が起こる。

「龍一、恥ずかしい。子どもじゃないんだからちゃんと食べなさい」

「いやいや、龍一君は疲れてるんだよ。法事なんて高校生にはただ苦痛なだけだろう。お友達と遊びに行きたい年頃なのにこんなのに付き合わされて気の毒に…」

「龍一には一緒に遊びにでかけてくれる友達なんてほとんどいないのよ。この子ったら誰に似たのか人見知りで…将来お嫁に来てくれる女の人が見つかるかどうか今から心配で…」

「あら、龍一君なら引く手あまたでしょう。ハンサムですものね。寡黙な男性の方がもてるのよ」

「龍一君は容姿だけでなく頭脳も明晰ですものね。確か、東京の有名な高校に進学なさったんでしょう?」

親戚一同が自分を肴に盛り上がるのを、龍一は黙々と箸を進めながら聞く。こうした気疲れが毎年憂鬱さを増してゆく。俯いてただひたすらに耐えた。

「奥さまは?」

誰かが使用人に小声で訊ねる。機械的に動いていた使用人は少し手を止めて、また小声で返した。

「…今朝は御身体の具合が良くありませんので、お部屋に朝食をお持ちしました」

龍一にとって直接の血の繋がりはないが、この家の入り婿だった亡き叔父の妻にあたるその人は殆ど姿を現すことはない。広い屋敷の中だからかもしれないが、龍一は数えるほどしか会ったことはなかった。

「それにしても、昨日ここに泊めてやった少年たちは一体どういう知り合いで?」

また誰かが叔父にそう訊ねたのを龍一は最後の魚のひと切れを流し込みながら聞く。

そういえば…と龍一は思い出す。昨日屋敷で見知らぬ少年を見かけ、驚いたことを。親戚の中にはいない顔だった。

「いや…山道で車がエンストしたらしくて困っていたみたいでね。向こうの温泉地を目指していたらしいんだけど生憎こっちも急いでいたし、だけど見捨てることはできなくて。賑やかな、感じのいい少年たちだったんでちょっと助けてやりたくなってね…ご迷惑かけてすみません」

叔父は上座に座っていた家主に頭を下げる。当年とって89歳の老人だが貫禄があり、無言の威厳のようなものがそこにあった。瞼の皺が垂れているせいで目を開けているのか閉じているのか分からない。龍一にとっては親戚にあたるが、あまり口をきいたことはない。

「昨晩…何かを幽霊だと見間違えたらしく大騒ぎをなさったので厳重注意をさせていただきました。今朝は早々に出ていったそうですが」

膳の片づけをしていた使用人の老婆が独り言のように呟いた。

「まあ、都会の普通の家の子からしたらこんな広い屋敷だと何かと疑心暗鬼になりがちだろうな。俺達も何年も来ているが未だにこの広さには慣れない。まるで迷路だ」

誰かが冗談めかして笑う。その中でまた別の誰かがお茶をすすりながら切なげに呟いた。

「…生きていれば18歳…もうすぐ19歳か。確か…千年桜の満開の中に生まれ、一週間経たぬうちに亡くなった…」

龍一は複雑な想いでその呟きを聞く。そう、生きていれば一つ年上の18歳。龍一がまだ母の胎内に宿る前にその命は桜の花びらが散るように儚くこの世から消えたという。この法事の主役…この屋敷の主のひ孫…

「龍一、ちゃんとお墓に手を合わせていきなさいね」

その呟きを共に聞いた母にそう言われ、龍一は静かに頷いた。