「しかし世の中色々あるんだな。ほんと勉強になるよ」

デッキをブラシでこすりながらキシがしみじみ呟く。それを側で聞いていたカオルが厨房からくすねてきた干し肉をくちゃくちゃ噛みながらうんうんと頷いた。

「ほんと生きるって大変だよなー。食わなきゃいけないし」

「…カオルは食べ物さえあれば何があっても耐えられそうだね」

「あ、心外だなそれ。俺を食欲の権化みたいに言うなよ、キシ.。俺にだってな、どんなご馳走積まれても飲めない条件だってあんだよ」

「え、何それ?カオルに食べ物より大事なもんとかってあるの?」

水を撒きながらキシが問うと、カオルは胸を張って答えた。

「あるぜ!!ミズキが俺には食いものより大事だからな!もしミズキを差し出せって言われたら俺は断食してでも阻止するぜ!!」

「はぁ~…カオル、お前意外に熱い奴だなー」

感心していると、どこかでぼそぼそと「…も…キシくんの…ためなら…」と聞きとりにくい小声で聞こえてくる。程なくして「おめーんなとこに隠れて何やってんだ!?フウ!?」という大声と共にケイが現れた。

「おいキシ、カオル、次の航路についての説明があるからよ。食堂に集合だ」

「あ、もうここ発つの?確かあと2日か3日滞在じゃなかった?」

「なんか知らねえけどよー取引しようとしてた連中がこぞってうちとの取引断ってきたんだと。商売になんねえから早めに出発して次の国目指すって航海長たちが言ってた。商品が腐っちまったら元も子もないからな」

「ふーん。ああ、結局今日の首飾り諦めたしもうちょっと店見たかったなー」

がっかりしながらキシがは除を済ませてカオルと共に食堂に向かった。

「…というわけで明日の夕方出発する。次の国まで概算でおよそ4日かかるから燃料や食料の補給を済ませたらすぐにでも発つ」

航海の説明があり、その準備が始まる。

「次はどんな国かな、ワクワクするね、キシ君」

眼を輝かせながらフウが言った。キシは頷く。ふと窓の外を見るとそれが濡れていた。雨が降ってきたのだ。

「…さっき掃除したばっかなのに…」

「まあまあそんなもんだキシ。今夜は早く寝ようぜ。でないとまた寝不足で酔うぞ」

雨は次第に激しさを増してくる。まるで誰かのやりきれない怒りのように。

そして翌日もそれは続いた。悪天候の中なんとか船員で手分けして燃料食料の補給を済ませて天候と睨み合っていると、なんだか甲板の方から騒がしい声が聞こえてくる。

ケイ達が甲板に出ると思いもよらない人物がそこにいた。

「誰だコイツ?おい、ひどい顔だな誰にやられた?」

「つかなんでうちに…?」

先輩クルー達がざわついている。その足元には…

「ジン!?」

驚いてかけつけると、そこにはびしょ濡れで顔じゅうに痣や傷跡を作った見るも無残な姿のジンがいた。息も絶えだえ、という状態でケイ達の姿を見るとぜえぜえと息を吐きながらか細い声でこう絞りあげる。

「…頼む…ゲンキを…ゲンキを助けてくれ…」

「どういうこと、あの子に…ゲンキに何かあったのか?」

キシがジンを抱き起こしながら問うと、ジンは痛みに顔を歪ませながら答えた。

「…屋敷の地下牢に幽閉されて…明日にでも殺されちまうかもしれない…俺の力ではどうしようもなくて…でも…」

一体何があったというのだろう。昨日会った時、彼らの間にそんな切羽詰まった雰囲気はなかった。それに、ジンのこのひどい怪我は…

「おい、とにかくそいつの手当てが先だ。キシ、医務室に運べ!」

「はい!」

先輩に言われて、船医のいる医務室にジンを運ぶ。のんびりお茶をすすっていた船医はその悲惨な状態に目を丸めた。

「暴行でも受けたか?こりゃあひどい。骨にヒビが入ってるかもしれんぞ」

「何があったんだよジン!おめえら昨日はそんなこと…」

「…俺のせいだ…俺のせいで、ゲンキが…」

手当を受けながら、ジンは自分を責めて眼をきつく閉じる。彼は痛みに呻きながら喘ぐように語った。

 

 

ジンは夕食中もずっと気がかりだった。どうにも執事長のあの眼がひっかかって仕方がないのだ。

「おいジン、それ食ったら装飾品磨きしとけよ。明日英雄広場までパレードらしいからな。雨降りそうだけど」

「あ、ハイ」

先輩に言われて、ジンは馬車に乗せる装飾品が保管してある部屋に道具を持って向かった。

屋敷は広い。だがジンはここに来てもう5年になる。雑務ばっかりやってるうちにもう屋敷の内外の間取りや仕組みが全て頭に入っていた。すらすらとそこまで向かう途中で、ゲンキ達踊り子が寝泊まりしているエリアを通ると部屋からゲンキが青白い顔で出て来た。

「ゲンキ…」

ジンが思わず呼びかけると、ゲンキはびくっと肩を震わせた。

「ジン…」

すがるような眼でゲンキはジンを見つめる。ジンは持っていた道具を落としそうになった。

「なんで今夜もゲンキなんだよ。おかしくね?お前三日前に相手したばっかなのに…」

「分かんない。でも、今日は長くなるぞって執事長がさっき言いにきたんだ…」

泣き出しそうな表情だった。ゲンキはジンの腕を痛いくらいの力で掴み、声を震わせる。

「…嫌だ…もうこんなこと…僕は…」

悲痛な声をゲンキは絞り出す。彼の眼には迷いと自己嫌悪、そして恐怖が色濃く映し出されている。

部屋に呼び出されるのは何日かに一回はめぐってくるから今更ではある。だがゲンキはその度「ちょっとの我慢だから」と割り切っていた。ジンはゲンキが呼びだされる度に連れて逃げたい衝動に駆られたが、ゲンキにそう説得され続けてきたのだ。

だけど今、そのゲンキが助けを求めている。

どういった心境の変化か…考えてみてすぐに思い至った。今日出会ったあの船乗りの少年達の影響だろう。

彼らは皆、希望と喜びに満ちた瞳をしていて、そこには曇りは微塵もなく明るい笑顔に溢れている。眩しくて、目をそらしてしまいそうなほどに…。

彼らと出会って自分の置かれている状況に疑問が生じてしまったのだ。慰み者になっている自分がひどく惨めで汚らわしい存在だという意識に苛まれ始めたのかもしれない…

 

 

ゲンキとジンは二年前に出会った。踊り子として連れてこられた少年達は屋敷では跡取り息子の大事な所持品として扱われているから皆それなりに高待遇だった。だが来たばかりのゲンキは暗くておどおどして憂いを常にその眼に宿していた。

ジンが中庭の草刈りをしていると、外で一人溜息をついているゲンキを見た。

綺麗な子だな、と思ったのを覚えている。もっとも、そうでないとここには連れてこられないだろう。中には連れてこられても息子の好みでなければすぐに追い出される。ジンはここに雑務係として雇われた時、まだ幼くて中性的だったから執事長が一応息子に顔見せをした。だが好みではなかったらしく雑務係から変わることはなかったのが幸いだ。

ゲンキはその屋敷の息子のお気に入りだった。彼の物憂げな雰囲気とその美しい顔、そして従順で大人しい性格がドンピシャだったらしい。

「お前、そんな哀しい顔ばっかすんなよ。ここにいればなんでも好きなもの与えてもらえるんだからさ」

ジンはそう声をかけた。するとゲンキは驚いたようにジンを見る。

それから何度か屋敷の中で出会って声をかけていくうちにゲンキはジンに心を開くようになった。少しずつ自分の身の上話をしてくれるようになり、ジンにはそれが嬉しかった。ジンもまた、12歳で家を出て勝手の知らぬ国で働くようになったから友達と呼べる存在がいなかったのだ。

「僕は小さい頃に親を亡くして、親戚に引き取られたんだけど居心地が悪くて。学校に通うようになったらあまり馴染めなくていじめられることが多かったんだ。こんな性格だし…」

ゲンキが昔の自分を語る時、そのほとんどが自分のことを否定的に話す。思い出したくない過去をほじくり返しているようでジンは黙って聞くことしかできなかった。

「僕なんて誰にも必要とされない、一生こうやって生きて行くんだって思ってたら町中で声をかけられたんだ。あの執事長の人がね、僕の顔を見て『磨けばなかなかのものになる』って言ったの。なんのことか良く分からなかったけどその後すぐにその時いた親戚の家に話をしに来て僕はここに引き取られた」

屋敷に来る少年のほとんどはゲンキと似たような形でやってくる。どうやら執事長が積極的に狩りに走っているらしい。

「正直、嫌だったけど…それでも僕に決定権はないからどうしようもなかったんだ。自分は売られたんだって思うとどうしても気分が沈んじゃって…」

「売られたんじゃねえよ。ここで必要とされたからここに来た。そう思えよ。どうせならポジティブに行こうぜ」

ゲンキは目を見開く。その後でふっと笑った。

美しい笑顔だった。

「そうだね。ありがとう、ジン」

それからジンの休みの日に踊り子としての役目がなければゲンキはジンと一緒に過ごすことが多かった。二人でいる時間はジンにとってもゲンキにとってもかけがえのないものだ。

息子の部屋に呼ばれた少年達が彼に何をされているかを考えるのはナンセンスであるとジンは割り切ることにしていた。知ったところでどうすることもできない。そんなことよりももっと有意義な時間を過ごそう。ジンは時々ひっかかりながらもそう思うことにしていた。

だけど、他ではないゲンキが助けを求めていれば話は別だ。それを確認すると今まで抑えていたものがむくむくと姿を現し始める。

ジンはゲンキの腕を掴んだ。

「…逃げるぞ、ゲンキ」

「…ジン…?」

「大丈夫だ。夜間は警備も手薄になりがちだ。抜けて出られるところも俺は知ってる。この屋敷のことはなんでも知ってるから安心しろ」

「でも、逃げたとしてもどこに行くの…?僕達にはあては…」

「そんなん、逃げ出した後で考えるんだよ。とにかく俺も我慢ならねえ。あんなバケモンみたいな奴にお前のこと好きにさせるなんて耐えらんねぇ」

「うん」

ゲンキは頷く。ジンは彼の意志を確認すると慎重に、誰にも見つからないように屋敷の外に彼を誘導する。警備員の配置されている場所と人目につきやすい場所を避けて、外壁をよじ登ることのできる裏庭の低い木にゲンキを連れて行った。暗くて分かりにくかったが、灯りをつけるわけにはいかない。どうにか手さぐり足さぐりで二人でそれを登ることに成功する。あとは外壁から飛び降りるだけ…

だけど残酷な結果がそこにはあった。

「ぼっちゃんの大事な宝物を無断で持ち出すとはどういうつもりかな、ジン」

外壁の向こうには数人の警備員と執事長が待っていた。どこで見つかったのか…この時間は警備は手薄になるし、執事長はもう休んでいるはずなのに…

「捕えろ」

ぞっとするような低く冷たいその声を合図のようにして、頭上から激しい雨が叩きつけた。