結局その夜は夜通し泣き続け、翌朝ひどく目が腫れぼったくてひどい顔をしていたからなんだか先輩達も腫れものに触るような扱いだった。機械のように自動的に仕事をこなすと、夕暮れを迎える。
甲板に立って夕陽を見ていると、また胸をえぐるような寂しさがこみ上げてくる。昨日あれだけ泣いたのに、また目には涙が滲んできた。
浮かんでくるのはレイアの顔ばかり。たった3日だけ、しかもほんの少ししか話してないのにどうしてこんなに沢山の表情が浮かんでくるのだろう。記憶力はないはずなのに、初めて会った時からの瞬間瞬間が鮮明に脳裏に浮かぶ…。
日が経てばそれも色褪せるだろうか。美しい思い出の一つ、ほろ苦い別れの一つとして風化するだろうか…
だけど今、こんなにも辛い。
一緒にいたくて、もっと色んなことを話したくて、その笑顔を見たくて仕方がない。
たった3日じゃ全然足りない。
生まれて初めてケイの中には強い欲求というものが芽生えていた。何よりも最優先すべきもの。それを手に入れるにはどうしたらいいか…。
足りない頭で考える。次々にアイデアを出してはその非現実さに打ち消していく。そうしているうちにもう陽はとっぷりと暮れていた。早くしないと夜が明けたら出港だ。なんとかしなくては…
「おいケイ、飯だぞ」
後ろで誰かが呼んでいるがケイはそれには答えず延々思考をめぐらせる。しかし拳骨が飛んできた。
「いい加減にしろ!片付かねえだろさっさと食え!」
しぶしぶケイは食堂で冷めきった夕飯を口にするが味は分からなかった。その横で先輩達がぶつぶつ言っている。
「いいよな~キャプテン達は今日も酒場でうまいもん食ってんだろ。俺もいきてぇな」
「上にのしあがるまではガマンだな。それともお前、ここ出てどっかで下働きでもするか?」
「バカいえ、俺に船乗り以外の仕事なんてできやしねえよ」
船乗り以外の仕事ねえ…と思いかけてそれは突然に閃いた。
「そうだ!!」
ケイは思わずそう叫びながら立ちあがっていた。先輩達の驚いた顔が周りにはあったがおかまいなしだ。
そうだ。俺がここを出てこの街で仕事を見つけて暮らせばいいんだ。
そうすればずっとレイアと会える。
何故もっと早くそこに行きつかなかったんだろう。ケイは夢中で荷物をかき集めた。が、それはほんの袋一つ分で収まる。元々自分の物なんて服以外にないのだ。
5年暮らしたこの船を出ることや世話になったクルー達のことを思うと少々勝手な気もしたがそれでもケイにとっては今、優先すべきはこっちだった。天秤はもう傾ききっている。あてがあるわけではないがまず動かないと始まらない。
最後に、キャプテンには挨拶しておいた方がいいかもしれない。それぐらいの礼儀はまだ自分の中に残されていた。
「キャプテン達は?」
「あ?なんだお前その袋。キャプテン達はまた街の酒場だろ。ていうかお前今日また夜遊びしたら大説教だぞ分かってんのか?」
先輩達の苦言も右から左に、ケイは船を飛び出した。
レイアのいる店には今日は来ていないだろう。昨日騒ぎをおこしたから。とすると他の酒場か…と検討をつけてケイは街を走り回る。
途中、レイアの店を通ったからそれとなく中を覗いてみたがレイアの姿を見つけることはできなかった。
まあいいや、これからいつでも会いに行くこともできるし…と思い直しまたひたすらに店を覗いてはまた走り…を繰り返す。しかし中々キャプテン達は見つからない。大人数だし、多分騒いでるだろうからすぐに見つかると思ったのだがこの街は意外に広い。もたもたしているうちにどの店も店じまいを始める時間になっていった。
「…戻った方がいいかな…」
もしかしたらもう船に戻っているかもしれない。間抜けな気がしたが仕方がない。最後のあいさつくらいはしておきたいからケイは道を訪ねて回ってようやく港の船まで戻った。
「ケイてめーまたこんな時間までほっつき歩いてやがったのか!」
「いい加減にしろ!でももう明日からは海の上だからそれもできねーけどな」
口うるさい先輩達の顔ももう見ることがないのかと思うと少し寂しいがケイは適当に返事をして船長室を目指した。この時間はきっと部屋にいるはずだ。
船長室の前に立つ。そして深呼吸を一度だけしてノックをした。
「しつれーします!」
声を張り上げてドアノブを回して中に入るとそこには全く予想だにしない人物がいた。ケイは驚きのあまり腰を抜かしそうになる。
「レイア…!?」
中にはキャプテンとレイアがいた。レイアはソファに座って行儀よく手を膝の上に乗せていた。キャプテンが肘掛け椅子に座りながら「やっと帰ってきたか…」とぼやく。
何故レイアがここにいるのか…しかし疑問よりもケイはまず言うべきことを言わねば、と自分を奮い立たせた。その後でレイアにどうしてここにいるのかを訊こう。
「キャプテン、話あるんだ!」
「ほう…なんだ言ってみろ」
キャプテンは落ち着いていた。しこたま酒を飲んでいる割には…
ケイは言った。
「俺、船を出る!この街で仕事見つけて暮らす!」
ケイは殴られることも覚悟していた。ふと見るとレイアの目が大きく見開かれていた。
「船を出る…?」
キャプテンは椅子から立ち上がり、近づいてくる。今更ながらに心臓が跳ねた。
キャプテンは180センチを超える大柄な体格で、腕力も今のケイでは太刀打ちできないくらいに強い。数々の修羅場をくぐりぬけてきたその風貌は絶大な迫力があった。若干怖気づくが拳を握って耐える。
「か…勝手だって分かってるし恩知らずだと思うけど俺にはここにいるより大事なもんができたんだ!だから…」
キャプテンの右手が上がった。
来る。ケイは目をきつく閉じて歯を食いしばった。
「…?」
しかしケイに振りおろされたキャプテンの右手は顔面ではなく肩の上にぽん、とおかれただけだった。
恐る恐る目を開けると何故か呆れた顔のキャプテンがそこにいた。そして彼は言った。
「そうか。寂しくなるな。まあお前の代わりに一人船員雇ったところだからちょうど穴埋めはできるってことだな」
「え?」
雇った?誰を?そんな疑問を持ち始めていると、レイアがおろおろと立ち上がる。
「ケイ、なんで…?」
「え?何?キャプテンどういうことだよなんでレイアがここにいんの!?」
ケイはようやくその疑問を口にしたが頭の中は混乱で満ちている。そんなケイをよそにキャプテンは至って冷静な口調で答えた。
「この子は今日からこの船に乗る。だからここにいる。それだけだ」
「はぁ!?」
理解ができない。いつどこでそんな話になったんだ。だって昨日レイアは…
「飲んで帰る途中にな、声をかけられて船に乗せてくれっつうんだよ。まあうちは人手不足だから大歓迎だ。ただし仕事はきついぞって言ったんだがそれでもいいって言うからな」
「レイア…?だって昨日…」
ケイがまだ混乱しているとレイアは少し申し訳なさそうに顎を引いた。
「ごめんねケイ、昨日ね、僕色々考えて…ケイの言ってくれたことがなんだか自分にとってもいい方向に行くような気がして…。それをケイに相談したかったけど、どの船かも分からなかったし探しても会えなかったから…」
「まじで…」
ケイが言葉を失っているとキャプテンは意地悪そうに言う。
「ま、お前は船を出るみたいだからこれっきりになるだろうし思う存分別れの挨拶でもしていけ」
「ちょ…ちょっと待って!」
ケイは慌てて声を張り上げた。レイアが船に乗るのに自分が降りるなんてそんな惨い展開はない。ケイはレイアといたくて船を降りる決心をしたのだから…
「なんだ?」
「あの…俺、まだ船でやり残したことが…」
やばい。これで追い出されたらそれこそもう最悪だ。ケイは涙目になりながらキャプテンを見つめる。
もしダメならもうレイア連れて逃げようか…と浅はかな知恵を働かせていると、キャプテンの溜息が室内に充満する。
「勝手にしろ。あとこの子の教育はお前に任す。やり残したことがなくなったらもう出ていくなりなんなり好きにしろ」
何故かケイは勝手にこう解釈した。「良かったな」ってキャプテンは言っている…と。
「はい!!ありがとうございます!!」
ありったけの声でそう返すとキャプテンは浅く溜息をついた後、皮肉っぽく呟いた。
「お前が俺に礼言うなんてここに来て初めてだな」