岩橋が目を覚ますと、辺りはもうしんとして深い闇が吐息を流していた。岸くんは派手にいびきをたてて眠っており、神宮寺と颯もその疲れからか深い眠りに堕ちていた。

「…」

なんとなく落ち着かなくて、トイレに立つことにした。廊下は真っ暗かと思われたが常夜灯のような小さな灯りが点々と灯っていて歩くのに苦労はなかった。

トイレはどこだったっけ…と記憶を掘り起こす。だがちゃんと聞いていなかったから分からなくなってきた。加えて、この屋敷は異様に広い。それだけに不気味でだんだん怖くなってきた。

ふいに、誰かの話し声が聞こえた。その音に導かれるようにして進むとだんだんはっきり聞こえてくる。そして灯りの漏れている部屋があった。

「…明日は天気が悪くなるから、また少し先延ばしになるな」

「…まるで儀式を邪魔するように、ここのところ天気が悪くなりますね」

「馬鹿を言うな。大切な儀式を邪魔する意志などどこにある。次の満月の頃には何がなんでも済ましてしまわなくてはどんな災厄が降りかかるか…」

「ですが、そもそも捧げられるのは中村家の「娘」でしょう…残念ながら奥様が亡くなられた後ではもう子どもは生まれない…。旦那様も再婚の意思はありませんし、挙武様か嶺亜様のお子様に継がれるべきだったのでは?」

「そんな先までは待てないだろう。村の人間もその間何かあったら儀式を行わないせいだと言いだすだろうし…。嶺亜様には気の毒だが、あの痣を持って生まれた宿命として…」

そこで、岩橋はくしゃみがでてしまった。いきなりだったから音が抑えられなくて、思いっきり声を出してしまった。

「誰だ!?」

やばい。岩橋は咄嗟に近くの部屋に逃げ込んだ。

息をひそめて、人がいなくなるのをじっと待つ。小心者の岩橋は自分の心臓の音が漏れてしまいやしないかと生きた心地がしなかった。口の中は恐怖と緊張でカラカラだ。

どれくらいの間、そこにいたか…時間にすればほんの数分なのだろうが岩橋にはひどく長く感じた。もうそろそろ出ても大丈夫…と辺りの気配に神経を集中しつつ、部屋を出た。

自然と足音を殺しながら自分が泊まっている部屋への道をなんとか探り当てると、そこで誰かが前から歩いてくるのが見えた。

「あ…」

嶺亜だった。薄暗い廊下の灯りは彼の容姿をよりミステリアスに見せた。和服を着ているから余計にそれが際立つ。

嶺亜は、岩橋を認識すると訝しげに見てくる。

「あの…トイレを借りようと…」

岩橋が言い訳がましく言うと、嶺亜は静かに廊下の先を指差した。

「トイレはそこを曲がった先だよぉ」

「あ…どうも…」

頭を下げてすれ違う瞬間、岩橋は見た。だから通り過ぎようとする彼の腕を掴んでいた。

「どうしたの?」

嶺亜の頬には涙の跡があった。声も少し鼻声で、泣いていたであろうことは明白だった。何故か放っておけなくて、岩橋は訊ねてしまったのだ。

「…」

嶺亜は目を見開く、岩橋が心配しているのが不思議なようだった。その瞳がまた濡れ出す。見る間にその美しい顔が歪み、彼は絞り出すように、嗚咽交じりに岩橋にこう言った。

「助けて…」

 

 

「まだ寝ないの?」

龍一の声を無視して、携帯ゲーム機の操作を自動的に進める。こんな時に限って高得点を叩きだす。どうやら少し苛ついていた方がゲーム操作にはいいようだ。

だが、ちっとも気は紛れない。余計にモヤモヤするばかりだ。

「もう3時だよ。夏休みとはいえ、もう寝た方が…」

「じゃあおめーはなんで起きてんだよ」

鋭いツッコミに、龍一は返す言葉がなかった。おそらく、起きているのは同じ理由だろう。

「明日、天気悪そうだね」

窓の外はまだ静かだった。だが未明には降り始める、と天気予報は言っていた。それを予感させる涼しさがあった。

「毎日嵐だったらいいのによ。おめー雨男だったよな。毎日雨乞いしろよ。そしたら…」

「無駄だよ。いざとなれば月が出てなくても…」

言いかけて、ゲーム機を投げ付けられた。今の恵は相当ナーバスになっている。こう言う時のネガティブさは自分の比ではない。龍一は今しがたの発言を後悔した。

「今日はさんざんだぜ。れいあに会いそびれたどころか棺桶いじってむちゃくちゃ怒られるしよ…それもこれも全部あの変な汗だくの涙目法令線ヤローのせいだ!蹴り25発じゃ全然足りねえ!しかもあいつれいあん家行ってやがんだぞ!」

「だから俺はあんなわけのわからないよそ者なんかほっとこうって言ったじゃないか。それを恵兄ちゃんがこいつ身代わりにしようぜとか訳分かんないこと言うから…」

「おめーが怪しい奴がいるっつったんだろ!!それこそほっときゃ良かっただろーがよ」

理不尽に責められて、龍一はさっさと寝れば良かったと後悔した。が、寝付けないのもまた事実だった。

「…どうする?明日無理にでもやるって言われたら…」

「あ?そんときゃもう全部ぶっ壊して逃げるしかねーだろ。龍一、おめーも覚悟決めとけよ」

恵らしい破天荒な返事に苦笑しつつも、それが現実のものとして刻一刻と迫ってきているのを龍一は感じていた。

明日は流れるだろう。だが、おそらく次はない。

その時こそ、嫌でも覚悟を決めなくてはならないのだ。

龍一がそれを胸に刻んでいると、恵もまた真剣な表情で虚空を見つめていた。

 

 

「おい岸くんいい加減起きろよ。朝メシ食いっぱぐれるぞ」

神宮寺の声に起こされて、岸くんが重い体を起こすと窓の外に荒れ狂う嵐が目についた。まるで台風が来たかのように暴風雨が猛威をふるっている。これではとても自転車に乗れそうにない。

トーストと目玉焼き、サラダにヨーグルトというありがたい朝食をいただくと、目がすっきり醒めてくる。岸くんの一番の目覚ましは朝食だ。食べることによって脳が活性化する。

「あれ?岩橋もういいの?んじゃこのトーストとヨーグルトもらっていい?」

「あー、岸くんずりーぞ。ヨーグルトは俺がもらうんだからな!」

神宮寺と岸くんがヨーグルトの取り合いをする横で、颯は不思議そうに岩橋を見る。

「岩橋、なんか元気ないね。玄樹なのに。疲れてんの?」

「え?あ、うん、ちょっと…」

ヨーグルトはジャンケンの結果神宮寺が勝ち取った。それを美味しそうに舐めながら窓の外の暴風雨を見やり、神宮寺が呟く。

「これじゃチャリ漕ぐのなんか無理だな。けどあいつらのことだ、「約束は約束だからな」って俺らのこと追い出すんだろーなー」

「頼んでみようよ。雨が落ち着くまでいていいか。ちゃんと謙虚な姿勢で頼めばいいって言ってくれるって」

「お前は純粋ミネラルウォーターピュアネス野郎だな颯…うらやましいぜその性格」

「え?なに?どういう意味?神宮寺」

神宮寺と颯の横で岸くんがトーストをかじりながら溜息をつく。

「俺は追い出されるだろうなあ…覗き野郎と思われたかも…」

「え?何?どういうこと岸くん?」

颯が目を丸くして岸くんに訊ねた。

「いや…そのつもりはなかったんだけどさあ…昨日かくかくしかじかでなんか後味悪いっていうか思いっきり痴漢野郎を見るような眼で見られて逃げるように出て行っちゃって…」

「き、岸くん…」

ショックを隠しきれない颯に、神宮寺が茶化しに入る。

「おいおい岸くんそりゃないだろー。いくら女みたいでも男に欲情するとかねーよ。ぶっちゃけアレ勃っちゃったの?」

神宮寺が下ネタを飛ばすと同時に襖が開く。挙武が無愛想な仏頂面で入ってきてこう告げた。

「雨風がひどいからいたければいればいい。但し、粗相のないようにな」

「んだよ、素直に「いてもいいよ」って言えねーのかよ」

神宮寺の憎まれ口を、颯が口を塞いで阻止した。

「ありがとう!ちょうどお願いしに行くところだったんだ!ただお世話になるのも心苦しいから何か俺達で役にたてることがあったらなんでもするよ。こうしてご飯までご馳走になってるし」

「君らにしてほしいことなんて何一つない」

あくまで馴れ合う姿勢は見せず、挙武は断言するかのように言い放った。

「あの…嶺亜くんは…?」

それまで俯いていた岩橋が挙武にそう訊ねた。彼は目を細める。

「…今朝から具合が悪くて寝てる。僕も丈夫な方ではないが嶺亜はそれ以上にデリケートなんでね。知らない人間が家にいるから落ち着かなくて体調を崩したんだろう」

「俺らのせいだっつーのかよ」

またも颯が神宮寺の口を塞いだ。岸くんは昨日の風呂での一件のことを言われているのではないかとヒヤヒヤする。

挙武は出て行った。神宮寺が空になったヨーグルトの容器を放り投げながらぼやく。

「あーあ。こんなとこ早く出て行きたいぜ。けどここがどこなのかも分かんねーし天気わりーしもうちょい我慢するしかねーのかな。こんな田舎じゃ遊べそうなとこもないしな」

「田舎でもスーパーかコンビニぐらいあるでしょ。次出発する時に備えて必要なもの買っとこう。昨日の教訓を活かして寝袋とか懐中電灯とか食料とかさ」

岸くんの提案で、傘を借りて店の場所を教えてもらって岸くん達は近所の店に買いだしに行くことにした。