まだ暗いうちから颯は起きる。街は眠っていて犬の遠吠えが静かに谺している。しんとした冬の朝。颯はジャージに着替えていつものようにジョギングを始めた。

「おはようさん。今日も寒いのに走り込みかー。偉いねー」

商店街を通りかかると配達のおじさんが声をかけてくる。挨拶をして颯は駆け抜ける。

「颯ちゃん今日もいい走りっぷりだねえ。よ、未来のオリンピック選手!まあまあ座ってこれ飲みな」

魚屋の店主がホットレモンをくれた。お礼を言って飲み干すとまた颯は走りだす。

そうして一時間も走り込むとようやく街は目覚めだし、朝陽が眩しく降り注ぐ。いい感じに体が温まってきてすっきりと爽快感に包まれる。これが一番の精神安定かつ健康維持法なのである。

「おはよぉ颯。ご飯できてるよぉ」

嶺亜がトーストとスクランブルエッグの朝食を作ってくれていた。他の兄弟達もぞろぞろと起き始める。

「くぁ…」

欠伸をしながら双子の弟・龍一が半分覚醒しきっていない緩慢な動きでリビングに姿を現す。昨晩遅くまで勉強していたらしくやや寝不足気味の様子でボーっとしている。

「龍一早く食べてぇ。片付かないじゃん」

嶺亜にせかされて、龍一は慌てた様子で食べ始める。が、卵が嫌いな彼はさりげなく郁に押し付けようとして見つかった。

「好き嫌いばっかしてるとぉ肝心な時に風邪引いちゃうよぉ」

「そうだぞ龍一。僕みたいに入試の日にインフルエンザになってもいいのか」

嶺亜が母親、挙武が父親のように龍一に説教をする。当の父親の岸くんは郁の分のトーストを間違って食べて郁にガチギレされてボコボコにされかけていた。

「郁、俺のあげるからパパのことそんなに責めないでよ。家庭内暴力はいけないよ」

颯が自分のトーストを郁に分け与えたことでそのいざこざは収まる。岸くんはできた息子に涙しきりだ。

「龍一、今日私立の願書見てもらう日だけど書けた?」

「あ、忘れてた…」

颯が問いかけると龍一はそう呟く。

「おいおい大丈夫かよ龍一。お前勉強はできるけどそういうとこてんで抜けてるもんな。颯は心配ねーけどよ」

勇太が制服のネクタイを締めながら茶化す。

「添削しなくて大丈夫か?まあでもその添削を今日してもらうんだからちゃんと持って行けよ」

挙武に言われて龍一は慌てて部屋に上がって行った。その後ろ姿を四つ子の兄達はやれやれと見る。

「まったくもう龍一はぁ…勉強以外のことなぁんにもできないんだからぁ…。本番にも弱そうだし心配だよぉ」嶺亜が溜息をつく

「あいつほんと勉強だけのアホだからな!テトリスなんか小学生並みなんだぜギャハハハハハ!」恵が豪快に笑う

「ま、でもうちの出世頭2になってもらわなきゃいけねえからな。颯、お前はどこ受けるんだっけ?」勇太が問いかける。颯は答えた。

「私立はF高だよ。でもうちには私立に行くお金なんてないし俺は挙武くんみたいに奨学金制度のあるような学校は受けれないし…。本命の県立のD高はまあ今のところ大丈夫って言われてるから…」

「まあ颯の成績ならF高もD高も大丈夫だろう。お前は普段から走り込みをして体を鍛えてるから風邪を引くなんてこともないだろうし…早く受験が終わって陸上部の練習に出られるといいな」

挙武が颯の肩に手を置く。兄達のエールをうけて颯は頷く。岸くんも颯に関しては何の心配もなかった。勉強も部活もちゃんと両立できる子だ。

「颯、高校に入ったら陸上の大会にも出るんだろ?ちゃんと観に行くから受験がんばって」

岸くんが励ますと颯は満面の笑みを見せた。

「うん!ありがとうパパ!絶対だよ!絶対観に来てよ!」

「颯、僕達に励まされるより嬉しそうな顔してるぅ」

嶺亜に指摘されて、颯は「そんなことないよ!」と顔を赤らめる。

そして願書を急いで書きあげた龍一と共に颯は登校した。

 

 

岸くんはマックにいる。ポテトが半額デーなので調子に乗ってLサイズ二つも頼んでしまい若干胸やけを覚えた頃、待ち合わせの相手が到着する。

「岸くんお待たせ。ポテト半額なんだよね?僕もポテトにしようかな…」

岩橋はそう言ってMサイズを一つ注文した。それをちびちびと食べつつ世間話に花を咲かせる。

「そろそろ双子の受験が迫って来てさ、そう遠くない昔のはずなのになぁんか懐かしくって。部活引退後にけっこう必死になって勉強してたなぁって…」

「僕は中学は不登校だったから選択肢があまりなくて…でも合格してがんばろうってその時は思えたんだよね。岸くんと同じクラスになってなきゃまた不登校に陥ってたかも…」

「不思議なめぐりあわせだよな。颯も龍一も高校でまたいい友達を出会えるといいな…。颯は心配ないけど龍一とかちゃんと友達出来るのか心配だし」

呟くと、岩橋はくすくす笑った。

「なんか、岸くん日に日にお父さんっぽくなるよね。とても同じ18歳とは思えない…」

「え、そ、そう?いやまあだって7人もいるとさー」

そう言われつつもまんざらではなかった。なんだかんだで少しは父親らしくなれてきているのかなあ…と岸くんは自分自身を評価する。

「さて、今日もがんばって働くか。安月給だけど家族7人養わなきゃいけないし」

岸くんは立ち上がる。そして意気揚々と会社に出勤した。

 

 

「えー提出してもらった願書は赤ペンで添削しているから本提出用の願書はこれを参考にして書くように。提出期限は…」

HRで担任から添削済みの願書を配布され、皆と見せ合う。

「颯、私立はF高だっけ?家から近いから?」

「うんまあ。でもF高は私立だしうちの経済事情じゃ行くのは無理っぽいからD高一本にしようと思ったんだけど受験の雰囲気に慣れてる方がいいからってパパが…」

「そっか。颯って陸上部命だったからてっきり陸上の強い高校行くのかと思ってた」

「部活はどの学校行ってもできるよ。それに陸上は個人競技もあるから。自分との闘いだし」

そんな会話をクラスメイトと交わしつつ、下校時に昇降口に降りると溜息をついた龍一と会った。どうしたのかと尋ねると願書が赤ペンだらけで担任に軽く説教されたのだという。

「勉強だけでなく他のこともきちんとできるようになれ、って…」

「あはは。そんなこと言われたんだ。でも四つ子兄ちゃん達もおんなじこと言ってたよ。今度挙武くんに書き方とか教わったら?」

「挙武兄ちゃんは嫌味だからな…かといって恵兄ちゃんになんか絶対正しい書き方教わるのは無理だし勇太兄ちゃんはすぐ話が下半身に反れ出すし嶺亜兄ちゃんは「こんなのも書けないのぉ?」って絶対零度降り注いでくるし…やっぱりパパしかいないのかな…」

「あ、そんなこと言ってパパと二人で親密な時間を過ごすつもりだね?ズルいよ龍一!」

「あのな…」

龍一は呆れ顔だったが颯にはその意味は分からない。自分だって進路相談や部活についての相談がここのところ岸くんと充分にできていない。だから龍一に先にそれをされるのはなんだか悔しかった。

「颯は別に今更相談することもないだろ。受ける学校だって十分合格圏内だし願書だってちゃんと書けてるし…」

「そういう問題じゃないんだよ。パパとの時間をちゃんと確保するという…」

颯が熱弁していると、前からぞろぞろとジャージ集団がジョギングしているのが見えた。その中の一人が立ち止まる。

「お前らは…!?」

「あ」

ジャージ集団の中には朝日がいた。良く見るとその青いジャージには「虎比須中」と記されている。

「なんだ朝日か。ジョギング中?いいね私立エスカレーターは受験なくて」

虎比須中は私立の中高一貫校で部活動が盛んだ。そこの陸上部のホープが朝日である。颯とは出場する競技が一緒だから一年生の時から良きライバルだった。

「何を言う!俺達は高等部の部活についていくために今必死になってトレーニングしてるところなんだ!受験の方がまだナンボかプレッシャーが軽いくらいだぞ。…お、そうだ!」

朝日はそこで指を鳴らした。そして颯にこう持ちかける。

「お前ら暇か?いいもの見せてやる。うちの学校に来い!」

半ば引き摺られるようにして颯と龍一は虎比須中学に連れて行かれた。

 

 

虎比須中学は高等部と隣接しており、大規模な校舎と豪華なグラウンドを擁していた。さすがに私立のマンモス校なだけはある。様々な部活動が盛んで生徒も多い。特に陸上部は「高校陸上界のHollywood」として有名だった。朝日はこの度中等部を卒業するが高等部には海人・顕嵐・海斗の三つ子もおり閑也もここの出身で兄弟全員が虎比須学園に通っているのである。

「こっちだ。来い!」

颯と龍一は狐につままれた様子で導かれるがままに朝日に付いて行った。

そこは陸上部専用のグラウンドで部員らしき生徒が練習に励んでいた。ぼんやりとそれを眺めているといきなり大歓声が上がった。

「見ろ颯…あれが虎比須高校陸上部のエース達だ!」

大歓声の中登場したのは四人の少年だった。彼らが真っ直ぐに歩いてくる。朝日は一歩前に出てお辞儀をした。

「お兄さん達、御苦労さまです!練習見学させていただきます!」

朝日はかしこまって彼らを「お兄さん」と呼んだ。一瞬、これも兄弟なの?と龍一は思ったがそうではないらしい。

「やあ朝日。練習捗ってる?高等部に上がってきたら一緒に練習できるの楽しみにしてるよ」

朝日の肩をぽんぽん、と上品な仕草で叩いた若干三白眼気味の前歯が特徴的な少年はそう言っていきなりバック宙をしだした。女の子の歓声があがる。

「ノエル兄さん…さすがです!」

朝日はバク宙を決めたその少年を「ノエル」と呼んだ。12月生まれかクリスチャンかだろうか…と颯と龍一は顔を合わせる。

「ノエルは派手だなー。あーバナナ上手い」

のらくらした感じの少年はバナナをもぐもぐやりながら呑気な口調で呟いた。朝日は彼にも礼をする。

「ヒロキ兄さん!バナナ上手いっすよね!栄養満点だし!ワカメはどうします?」

「んーワカメは後で味噌汁に入れるよ」

なんだか良く分からないノリに颯も龍一のもなんとなく圧倒されているとまた違った雰囲気を放ってもう一人少年が通りかかる。

「可愛いキャラは譲らないよ…」

小柄で可愛らしい顔をした少年が呟く。何故か視線は誰とも合わない。だがなんか良く分からないが可愛い。もっとも岸家の長男とは少し毛色が違うが…

「しめ兄さん相変わらず可愛らしいっす!誰も兄さんの可愛さには勝てないっす!」

「そう?…上手だねぇ朝日…フフ…フフフ…」

可愛いがちょっと笑い方が怖い。颯と龍一は思わず後ずさった。

そして…

「朝日…俺は誰だ?」

ひときわ背が高く目立つ容貌をした少年が呟く。朝日は即答した。

「みゅうと兄さんです!!」

その答えに、「みゅうと兄さん」と呼ばれた長身イケメンは恍惚とした表情を浮かべた。

「ちょっと…もう一度言ってくれないか?その…「兄さん」ってとこ強調しながら…」

「みゅうとに・い・さ・ん!!」

「兄さん…俺は兄さん…みんな可愛い俺の弟達…!!」

ふるふると震えた後、「ん、待てよ」とみゅうと兄さんは呟いた。

「『兄さん』より『お兄ちゃん』の方が響きが良くないか?そこの君、そう思わねえ!?」

いきなり話しかけられて龍一はびくついた。人見知りの彼は黙って頷くしかなかった。

「だよな!よし朝日、訂正だ。「みゅうとお兄ちゃん」でよろしく頼む!!さあレッツコールミー!!」

「はい!みゅうとお兄ちゃん!!」

朝日が大声で呼ぶと感極まったみゅうとお兄ちゃんは顔に手を当てた。

「生きてて良かった…!俺は「お兄ちゃん」…みゅうとお兄ちゃん…!!BAD BOYS Mお兄ちゃん…!!」

颯と龍一はもうすっかりどん引きだった。一体ぜんたい彼らは何ものなのだろう…訝しんだ頃、朝日が二人に向き直ってこう囁いた。

「…こんなおかしな人らだがひとたび走りだすとそれはそれは凄いんだ。よく見ておけ」

颯と龍一が半信半疑で見学をしていると先程のキテレツ4人衆がバトンを持ちリレーの練習を始めた。号砲が鳴り、第一走者の「ノエル兄さん」が走り始めると颯はその瞬間から魅入られた。

ノエル兄さんからヒロキ兄さん、しめ兄さんそしてアンカーのみゅうとお兄ちゃんが走り抜けるまでほんの数十秒…それだけで彼らの凄さが颯には分かった。なんという華麗でダイナミックな走り…まるで踊っているかのような…

「凄い…」

生唾を飲みながら颯が呟くと朝日は得意げに胸を張った。

「だろ?あれが虎比須高校陸上部のエーススプリンター達だ。川島如恵留・仲田拡輝・七五三掛龍也・森田美勇人…4人とも全日本の選手にそのまま選ばれてる通称トラビス・ジャパンの面々だ。俺も彼らのようになるのが目標だぜ」

「トラビス・ジャパン…」

「身近にああいう素晴らしい先輩がいて部活に打ちこめる俺は幸せ者だな。FUよ、お前はどこの高校に行くか知らないが俺が二代目トラビス・ジャパンとなってお前との決着をつけてやるからな!」

朝日が威勢よく言い放ったがしかし颯の耳には届いていなかった。ただただその凄い走りっぷりに魂が震えていた。

 

 

「おい颯と龍一遅くね?もう7時になんぞ。おう、パパお帰り」

恵が双子の帰りが遅いことに訝しんでいると岸くんは帰宅した。嶺亜は皿に豚カツを盛りつけながら答える。

「ほんとだよねぇ。遅くまで学校で自習してるのかなぁ」

「あれ、何?颯と龍一がまだなの?」

岸くんがつまみ食いをしながら問いかけるとしかし程なくして二人は帰宅した。全員で食卓を囲んで賑やかな夕食がいつものように展開される…はずだったのだが…

「どうした颯?全然食べてないじゃないか」

挙武に問われたが、颯は「うん…」と力なく呟くだけで箸が進まない。すかさず郁の箸が伸びたが嶺亜に止められた。

「どうしたんだよ?まさか風邪とかじゃねーだろうな。でも顔色は悪くないよな?」勇太が顔を覗きこむ

「帰り遅かったけどぉ勉強疲れとかぁ?颯、どうしたのぉ?」嶺亜が郁のおかわりをよそいながら訊く

「颯、しんどいんだったら夕飯は軽くして早く寝た方が…インフルエンザとかが流行りだす頃だしいくら鍛えてても安心はできないからさ」

岸くんがお椀片手にそう問いかけると、颯は箸を置いた。

「…パパ」

「ん、何?どうした?」

「進路のことなんだけど…」

やたらと思い詰めたような切り出しに、思わず恵が茶化す。

「んだよ颯!まさかハリウッドスターになりてーとか言い出すんじゃねーだろーなギャハハハハハハハハ!」

「俺…」

恵の冗談には答えず、颯は溜息をつく。そしてその後きゅっと唇の端と端を結んでこう言った。

「虎比須高校受けたい」

「へ?何?虎比須高校って?」

だが岸くんはきょとん、とする。このあたりの高校には詳しくないから、なんで颯がこんなに思い詰めた様子なのかが分からなかった。

「虎比須って私立のマンモス校だろ。なんでまたそんなとこ受けたいなんて今んなって言うんだよ、颯?」

勇太が問うと、颯は皆の目を交互に見据えて答えた。

「今日偶然虎比須中に通ってる子に会って…そこで陸上部の練習見せてもらったんだ。とにかく凄くて、俺もここで陸上やりたいって思って…」

「どの学校でも陸上できるって言ってたじゃねーかよ颯。それがなんでいきなり」

恵がご飯を口に入れながら訊く

「俺もそう思ってたけど…あまりに凄くて…この人達を目標に同じフィールドで練習すればなんか自分が凄く伸びそうな気がして、それでどうしても入りたくなって」

「いーんじゃねーの?何を悩んでんだよ颯兄ちゃん?」

郁の無邪気な質問が響く。彼は隙を見て颯の豚カツをゲットしていた。

「虎比須高校は私立だろ?それに…特進コース以外の奨学金制度もないし、おまけに部活動が盛んだから寄付金とかもかなり取られるって聞いたが」

挙武が心配そうに呟くと、勇太が箸を回しながら指摘する。

「おいおいまじかよ颯。うちにゃこれ以上私立通わす金なんてねーぞ。今だってエンゲル係数跳ねあげるブラックホールがいるし家のリフォームローンもあるしよ」

「でも…行きたい」

颯は絞り出すように言った。全員押し黙る。

これまで何一つ我儘も自分勝手も言ったことのない颯が、ここへ来て生まれて初めて頑なに自分の意志を示した。それを叶えてやりたい気持ちとそれができそうにない現実…まさに板挟みの葛藤だ。

「だ…大丈夫だよ、俺がこれまで以上に働くし、颯が行きたいんだったら…学力は大丈夫なんだよね?」

「パパぁ…僕達もそう思うけどぉ…実際問題としてうちの経済事情も考えて決断しないとぉ…」

岸くんがなんとかして場を和ませようとしたが、嶺亜が眉根を寄せる。勇太も続いた。

「そーだぜパパ。そりゃ俺らだって颯に行きたい高校行かせてやりてーよ。でも入学したはいいけど学費払えなくて退学なんつーことになったらどうすんだよ?」

「いや…でも、颯がそこまで言うんなら行かせてやりたいし…」

岸くんが言うと、颯は声を震わせて頭を下げ始めた。

「お願いパパ…俺はどうしてもあそこで陸上がしたい。そのためならなんでもする。だからお願い…!」

「も…」

もちろんだよ、と言いかけて、挙武の声が重なった。

「今夜僕が虎比須高の学費とうちの収入をちゃんと計算して行けるかどうか見る。それまでは保留にしとこう。颯、それでもいいか?」

颯は頷いた。