マリア像の周りには、満開の桜の木が見事に咲き誇っていた。その光景は克樹には奇跡のように見える。

いつの間にか足は動いていなかった。ぼうっとそこに見入っていると、マリアが目を細める。

「何やってんの?」

それはマリアではなく、呆れた表情の嶺亜だった。立ちつくす克樹を少々冷めた目で見ている。

「あ、いえ、えっと…」

間抜けな返しを反射的にすると、嶺亜は腕時計に目をやって頬を膨らませ、睨んでくる。そして一言こう言い放った。

「15分遅刻」

どっと汗が噴き出してくる。思わず自分の腕時計も見たが、確かに約束の時間に15分遅れだった。

「昼休み抜けて来てるんだから、遅れるなら遅れるで連絡くらいしなよ。決められた時間以上校務から抜けると叱られるんだからね」

「ハイ、すみません。道路がその…渋滞してて走った方が早い気がして途中で降りたら結局抜かされて…」

一通り言い訳を終えると、嶺亜は腕時計を見つつ「あと10分で戻らなきゃ」とせかした。

「で、僕に聞いて欲しいことって?」

克樹が今日ここに来たのは、自分の使命を果たすためだ。

昼に矢花に『プロポーズにでも行くの?』と茶化されたが、あながち間違いでもない。克樹はもう一度嶺亜に自分の気持ちを伝えるべく今日ここ聖神7学園の前までやってきた。

一度は玉砕しかけたが、再びのチャンスを与えてもらったのだ。まるで、一度死んだキリストがその死後三日で復活したかのような希望…少なくとも克樹にとってはそうだった。

その希望に向かって、克樹は真っ直ぐ目の前に立つ。

咳払いをして、ネクタイを正す。そしてすでにカラカラになった喉を一生懸命整えながら、全ての想いをぶつけた。

「好きです」

自分でも驚くぐらいスムーズに、その言葉は出た。

四ヶ月前、勢いで言ってしまった時とはまた異なる確固たるものがある。それが自分の背中を押した。

教師と生徒ではなく、一人の人と人としての関係になった時、嶺亜は自分の本当の気持ちを打ち明けると言ってくれた。だから克樹は卒業したらすぐに会いにいくつもりだった。それも、嶺亜の誕生日である4月2日に。

「それは?」

しかし克樹の渾身の告白をさらりとかわして、涼しい表情で嶺亜は克樹の持つぐしゃぐしゃの花束を指差す。包装が乱れて、なかなか酷い有様だった。

「えっと…手ぶらじゃあれだから買ったんですけど…走ってるうち…」

「スーツのボタンもかけ違えてるけど」

「え!?」

指摘されて、慌てて確かめると本当に掛け違えていた。琳寧達といる間、誰も指摘しなかったから気付かずここまで来てしまった。どうりで走っている時にちょっとした違和感があると思った…

「それに、また太ったんじゃない?髪もぐしゃぐしゃだし汗びっしょりでひどい顔…汗だくってなんか嫌な記憶しかないんだよね。出直しておいで」

「…」

そんな殺生な…と涙目になると、途端に嶺亜は吹き出す。明るい笑い声をひとしきりあげると、一歩近寄ってくる。

「まあ克樹にカッコイイ告白をしろって言うのも無理な話だよね。だいたい予想した通りのドタバタ劇だったね」

にっこりと笑い、イジりながら少しイタズラな小悪魔視線も酷く懐かしく思える。卒業式はあっさりと挨拶だけしか交わせなかったし、それから一ヶ月間想いは募る一方だったのだ。どれだけこの日を待ちわびたか…

涙目になりかけていると、ふいに右手に柔らかい感触が伝った。

それが嶺亜の手であることを認識すると同時に、彼はそれまでの少しおちょくるような態度からは一変し、真剣な眼差しをぶつけてくる。

少し、目眩がした。

それはこんなにも至近距離に嶺亜の瞳があることと、手を握られたという事実が螺旋階段のように織りなしているからかもしれない。

「一つだけ、克樹にお願いがあるんだけど」

目眩が収まりきらぬうちに、嶺亜の声が耳を撫でる。

「はい。なんでしょう…」

ダイエットを命じられるのか、それとも何か無茶ぶりか…幾つもの候補が脳内を渦巻いていると、今度は両手に感触が伝う。

克樹の両手を握り、嶺亜は真っ直ぐにその瞳を向ける。目の前に広がる虹の輪の花のような輝きに、今度は別の目眩に襲われた。立っているのがやっとの状態だ。

嶺亜は克樹にはっきりとこう言った。

「僕の側にずっといて」

瞬間、ゴォ…っと突風が吹き抜ける。春の嵐と呼ぶには少し遅い気もしたが、それがマリア像の周りの桜の木の花びらを散らした。

「…」

降りしきる花びらは、陽に当てられてきらきらと祝福の光のように舞い落ちる。神の奇跡が今、自分に降りてきた…克樹はそれを実感していた。

「それさえ聞き入れてもらえたら、僕はそれでいい」

手を離し、嶺亜は少し照れくさそうに目を伏せる。克樹はそこに見た。かつて大切な存在を失った悲哀と、この先にある希望への期待という相反した瞳の色を。

克樹の返事は決まりきっていた。

「勿論です。僕はどこにも行きません。先生から離れることも…」

「先生じゃないよ」

念を押すように、嶺亜は首を横に振る。

「僕はもう克樹の先生じゃない。だからここに来てくれたんでしょ?」

「そう…でした…でも、なんて呼んだらいいのか…」

「好きなように呼んでくれて構わないよ」

可笑しそうに、嶺亜は笑った。克樹はどう呼んでいいものか考えながらどんどんパニックに陥ってゆく。こんなことでこんな状態になってしまうのはまさに想定外だ。昨日まで綿密にシュミレーションしたのに、それらはもう真っ白に書き換えられてしまった。

「あ、もう戻らなきゃ」

腕時計を見て、嶺亜は踵を返そうとした。

「え?あの…」

克樹はパニックを一時封印して焦る。

嶺亜の返事を聞いていない。なんだかはぐらかされたような気すらする。結局のところ、自分の気持ちは受け入れられたのかそうでないのか…

「待って下さい、あの、僕の告白への返事は…」

しかし嶺亜はすたすたと校門の方へと歩いて行く。追いかけながら問うと、いきなり嶺亜は立ち止まる。

「あ、ここから先はもう部外者だから入っちゃダメだよ」

いつの間にか校門をくぐる手前まで来ていた。そこで立ち入り禁止を宣告される。確かに、もう生徒ではないからおいそれと入ってはいけないだろうが卒業生だしそんなに厳格にしなくても…第一、ちょっと冷たくないだろうか…やはり自分の気持ちは受け入れられないのだろうか…

嶺亜は背を向けてそのまま歩き始める。その背中を切ない気持ちで見つめていると、それはふいに克樹の耳に飛び込んで来た。

殆ど聞き取ることが困難なくらいの僅かな音量だった。もう少し風が強かったらそれはもうかき消されてしまったことだろう。

それでも、克樹の耳は捉えた。

「僕も好きだよ。初めて会った時からね」

確かに嶺亜はそう言った。そして克樹が聞き取れたかを確認するかのように、一度だけ振り返る。

聖母のような微笑みをたたえて、嶺亜は静かに校舎へと消えて行く。その姿が見えなくなるまで克樹はずっと見つめていた。

舞い散った桜の花びらだけが、克樹を祝福するかのように風に乗って優しく頬を撫でていた。

 

 

 

 

END

 

BGM

「Ave Regina coelorum Ⅱ」(DUBRA, Rihards)

「Gabriel Archangelus」(Francisco Guerrero)

「Ne timeas,Maria」(Tomás Luis de Victoria)

「Assumpta est Maria」(KOCSAR, Miklos)