『嶺亜、あんた顔だけは綺麗に産んでやったんだから感謝しなよ』

酩酊状態で笑う母親…まだ小さな頃の記憶だ。飲んだくれて、家事も育児も機嫌のいい時にしかしない。依存体質のだらしない女…それでも自分のたった一人の肉親だから、嶺亜には頼るべき存在だった。父親は生まれた時からいないし母が父親について語ることは一切なかった。恐らく彼女自身も見当がつかなかったのだろう。

というのも母は色んな男をとっかえひっかえで、とにかく落ち着かなかった。狭いアパートに男を連れ込んでは上手くいかないと精神的に荒れて、嶺亜にあたり散らすこともあった。何度か虐待疑いで通報され、その度に嶺亜は施設と自宅を行ったり来たりしていた。

いつの頃からか、嶺亜はずっと絵ばかり描いていた。もとより家の中には年齢相応のおもちゃやゲームはおろか、テレビさえもなかったから郵便受けに放り込まれている広告の紙の裏や余白に鉛筆で描いたのがきっかけだった。これさえあれば何時間でも時間を潰せるし、絵を描いている時はしんどい現実を忘れていられる…逃避の材料であり、精神安定剤でもある。

動物、風景、目に映るもの…なんでも描いたが、母だけは描くことはなかった。それは辛い現実だったから。

母がいよいよおかしくなりだしたのは小学二年生の夏休みだった…と記憶している。その2~3か月前から『結婚するよ。あんたに新しいパパができるよ』と上機嫌に嶺亜に話していて、かなり本気だったのかそれまで母親らしいことをあまりしなかったのに、授業参観に来たり、絵の具やスケッチブックを買ってくれたりとだらしないなりに少し変化があったと嶺亜は感じていた。

だがやはりそれが実ることはなかった。いきさつは知らないが、母はその相手に逃げられ自暴自棄になって昼夜問わず飲んだくれて暴れるようになる。そしてある日…

『嶺亜、母さんと一緒に死んでくれる?』

虚ろな眼で包丁を持った母が、外から帰ってきた時に玄関に立っていた。

子ども心に、ああ…もうこの人はダメなんだ…と嶺亜は確信した。その時の嶺亜の取った行動は、首を横に振り、踵を返して玄関を出て家から一番近い友達の家にかけこむという冷静なものだった。説得も何も通じないだろうし、首を縦に振れば自分はあの包丁で刺されていただろう。

嶺亜の家庭環境はクラスメイトにもその家族にも知れ渡っていたから、すぐに通報されそれから嶺亜は中学卒業まで施設と親戚の家とを半々で過ごした。母は精神病院に措置されたらしいが、詳細は嶺亜には知らされることはなかったし、知りたくもなかった。嶺亜の中で、母の存在はもう抹消されたのだ。

高校受験を考える時、親戚が全寮制であるこの学校の受験を薦めたのでそれに従った。もとより嶺亜には選択権がなかった。

寮生活は、施設の時よりも多少自由がきくし、親戚の家ほど息苦しくないから苦ではなかった。ルームメイトになった高橋颯は少しおかしなところもあるけれどいい奴で、打ち解けようと必死になって接してくるから適当にあしらっているうち自分も不思議と壁をなくしていったように思う。

友達、という存在はいなかったわけではないが、いかんせん自分が特殊な環境にいたためにあまり踏み込んで親しくなった相手はいない。傷つきたくないが故に当たり障りなく、無難に乗り切る癖がついていたのかもしれない。

だけど栗田恵と出会って、全てを曝け出すことの出来るかけがえのない大切な存在に出会えて、嶺亜は初めて心の底から楽しいという経験をした。そして、初めての感情を…

だけどそれは突然に引き裂かれ、残酷にも栗田は嶺亜の前からいなくなってしまう。それと入れ替わるようにして岸が現れてまた去って…

そこまで回想して、嶺亜は皮肉な笑みが漏れる。まるで母と同じ人生をなぞっているようだ、と…

母もまた、誰かを求めて…それでも手に入らなくてもがいていたのかもしれない。

彼女のように自分も、求めても求めてもそれが掌からすり抜けていく絶望を繰り返すだけなのだろうか…

精神が深き淵に堕ちようとしたその時、背広の内ポケットの携帯電話が振動する。殆ど無意識に嶺亜はその画面を見た。

ラインの着信だった。その相手は…

「…」

数秒躊躇った後、嶺亜は返信を送った。