嶺亜は職員室の自分の机のパソコンと小一時間向き合っていた。だが画面はそれ以前と殆ど変わっていない。

「中村先生、昨日のこの会議録なんだけど…ちょっと誤字が多いから直しといてね」

後ろから先輩教師に声をかけられて、嶺亜は意識を引き戻した。

「すみません。すぐ直します」

「いいよ別に急がなくて。でも珍しいね。仕事丁寧な中村先生が。ちょっと疲れてる?」

「いえ…そういうわけでは…」

「まあ文化祭終わった直後で張り詰めてたものがちょっと緩むよね。無理しないようにね。ちょっと一服してきたら?」

労いの言葉に礼を言って、嶺亜は少し席を外すことにした。

一服、と言っても嶺亜は煙草を一切吸わない。なんとなく、健康や肌に悪いことは避けて通っている。出来るだけ夜更かしもしないことにしていた。

校内の自動販売機で熱い紅茶を買ってそれをぬるくなるまで待って少しずつ啜ろうと思って職員室を出た。極度の猫舌だから熱い飲み物が飲めないが、この季節だから冷たいものは体が冷えるので飲みたくない。

紅茶を買うと、嶺亜は美術準備室に来た。目下のところ、一息つけるのはここしかない。時刻は4時過ぎで、傾いた陽が射し込んで眩しかった。カーテンを閉めて、ソファに身を沈める。

「…」

紅茶はまだ熱い。室内は寒いから手でカップを触って暖を取るにはちょうど良かったがまだ飲める温度ではないだろう。

美術準備室は雑然としていて、そこいらじゅうに美術部員の作品が収められている。その中の一つ…克樹の描いたガブリエル像が目につくと、嶺亜は大きな溜息が漏れた。

昨日、あんな態度を取ってしまったから、きっと克樹は酷く堪えているだろう。それを思うと全て投げ出してしまいたいくらいの自棄に襲われる。

どうしてあんなことを言ってしまったのだろう

後悔が大波のように押し寄せていた。何もあんな、拒絶して責め立てるような態度を取らなくてももっと冷静に宥めるようにかわすことだって出来たはずだし、そうしなければならなかったのだ。なのに…

しかし答えは嫌と言うほど明白だった。そんなことが出来る余裕が全くなかったのだ。

克樹の突然の告白に、動揺が頂点に達してパニックに陥ってしまった。

『僕は先生のことが好きなんです』

そう言われた瞬間に、嶺亜は頭の中が真っ白になった。

嶺亜は、克樹の自分に対する気持ちに薄々気付いていた。気付いていたが、克樹の性格上それを打ち明けてくることはないだろうと思っていた。だから、生徒と教師以上の関係になることはないと確信していた。

だが…

克樹が岸に会ったということを彼の口から知った時、もしかしたら…何かが変わってしまうのではないかという懸念がよぎる。漠然とした不安が離れなかった。そう、全てを克樹に知られてしまうのではないか、と…

克樹は、自分と岸の過ちを知ったかもしれない

それは嶺亜の精神を揺さぶるには充分すぎる畏れだった。だから無意識に嶺亜は予防線ばかりを張って、核心に迫られぬよう努めた。だが、そんなものも何もかも吹き飛ばしてしまったのが克樹の告白だった。

沸き上がる原始的な感情に、嶺亜は狼狽えた。どうにかして上手くやり過ごさなくては…と考えようとした瞬間に、準備室のドアの磨りガラスの向こうに人影が映ったのが見えた。

瞬間、嶺亜の中に最も優先させるべきものが先頭に躍り出る。

失いたくない

誰かに知られて、騒ぎになって、また失うことになるのは嫌だ。もうその一心だった。気付けば嶺亜は克樹を突き飛ばし、辛辣な言葉をまくしたててその場から逃げようとしていた。

「…あ…」

ドアを開けてすぐに、そこにいたのは谷村だと知った。彼は動揺を隠せない目で自分を見る。だが、その視線すらも逸らしてしまう。偶然なのか神様の悪戯か…また谷村に知られてしまった。

嶺亜はなんとなく知っていた。岸との過ちを証拠を持って告発したのは谷村であることを。

何故彼がそんなことをしようとしたのか、その真意は測りかねるが、嶺亜と岸を陥れてやろうというつもりはなかったのだということは分かる。谷村には谷村の信仰と正義があり、それに従った行動だったのだと。

だから岸が去ってから卒業するまでの期間、嶺亜は谷村とはそれまでと変わりなく接していた。向こうは戸惑いを隠しきれないでいたが、嶺亜には谷村を責め立てるつもりも非難するつもりもなかった。

だが…

克樹とのあのやり取りを、谷村がまた岸の時と同じように誰かに告発しないという保証はどこにもないのだ。だから、自分の取った行動は正しかったのかもしれない。そう思いたかった。

誰かに知られてぶち壊されて、また失うよりは、この方がきっと…

そのはずなのに、胸が苦しくて仕方がない。

知らぬ間に、嶺亜はシャツの上から自分の心臓を掴んでいた。固く瞳を閉じ、目の前を闇にする。

その闇の向こうに蘇る記憶があった。