「マリア様…」

次の日の朝、克樹は早起きをして久々に礼拝堂でマリア像前で跪く。

マリアは冷たく微笑んでいる。今の克樹にはそれが慈悲なのか嘲笑なのか分からない。

こうして祈りを捧げるのも実に久しぶりな気がした。日課になっていたはずなのにいつしか忙しさから疎かになっていた。その不信心さに天罰が下ったのではないかと思えるほど今の克樹にはマリア像の微笑みは辛く映る。

早朝の礼拝堂は冷え切っていて、吐く息が白くなった。鍵自体は管理の職員がかなり早朝から開けるから開いているが、エアコンが効き出すのは礼拝の始まる30分前からだ。だから冬は自ずとその頃からしか生徒は入ってこない。

克樹は腕時計を見る。まだ7時過ぎだった。今朝は6時前に目が覚めてしまい、なんとなく礼拝堂に来てしまったのだ。寮を出た時はまだ薄暗かったが大分明るくなってきていた。

射し込む朝陽が神々しくマリア像を照らす。初めて嶺亜を見た時も、これと同じように…いや、それ以上に神々しさに満ちて見えた。

だが聖母は自分を受け入れてはくれなかった。哀れガブリエルは想いを伝えてもそれが報われぬまま天界へと去って行く…ヨセフにはなれず、静かにその失恋の傷を抱えるだけ…

何度目かの重い溜息をついた後、ふと背後から何やら囁き声が響いた…気がした。

「…?」

なんとなく振り向いて、克樹は驚いて体勢を崩してしまった。そこにいたのは谷村だったが全く気配を感じなかった。

「…俺は…」

克樹に視線を合わせることなく、マリア像を見据えたまま谷村は独り言のように呟いた。

「俺は、ユダだった…」

「…?」

「マリアとヨセフを引き裂いたのは俺だ…だが二人は俺を赦すでもなく、その逆でもなかった…」

うわごとのように、谷村は独白を続ける。一瞬、克樹には意味が分からなくて谷村は寝ぼけているか気でもふれたのではないかと薄ら寒くなったが、そうではないことが次の彼の告白で知る。

「俺が岸先生と嶺亜くんの過ちを告発したんだ」

克樹は思わず谷村を見上げた。

「それこそが俺の最大の過ちだった」

「谷村先生が…?」

立ち上がり、克樹は谷村の横顔を見る。端正な、彫刻のようなそれを。

その目は混沌を抱えていて、先が見えない。見つめているのはマリア像なのか、それとも…

思いもしなかった事実に、克樹は思考が付いていかない。何故谷村がそんなことを…?

だが記憶の片隅に引っかかっていたものがあった。

『あの時谷村がここに居合わせなかったら』

確か、嶺亜と挙武の会話を盗み聞きしてしまった時に、挙武がそう言っていた。そこに思い至ると少しずつ整理が出来てくる。

嶺亜と岸が教師と生徒として赦されない過ちを犯したところに、偶然(それとも必然?)谷村が居合わせた。

そして谷村がそれを告発して、岸は教師を辞めた。

符合された事実に、克樹はただ呆然とすることしか出来ないでいた。谷村は続ける。

「俺は…マリアを穢されたことが赦せなかった…だがそれは悲劇しか生まなかった。俺は岸先生と嶺亜くんの両方を裏切ってしまった。そのことをずっと後悔していた」

まるで懺悔をするかのように、谷村は重い声を静かに礼拝堂に響かせる。

今更ながらに克樹は、彼は今自分の存在を認識しているだろうかと疑問に思った。こんな、あまり人に…それも生徒に聞かれてはいけないような内容を語るのはどういう意図が存在するのだろうと。

「俺はもう二度とマリアを裏切ってはいけない」

それまでの悔悟のような口調から一変し、断言するかのように谷村は言った。そして克樹の目を見ながらこう囁く。

「嶺亜くんは警戒してるんだ。もう二度と、誰かの目に、耳に触れて大切なものを失わないように自分の心を隠そうとしている」

「え…?」

「そうさせてしまったのは俺だから…だからせめて…せめて本髙が誤解しないように、伝えなくちゃと思って…」

「どういう…」

克樹がまだ状況に付いていけないでいる間にも、谷村は続ける。そしてこう言った。

「俺は昨日、あそこを…美術準備室の前を通りかかった。嶺亜くんは準備室のドアの磨りガラスに人影が映ったのを察知したんだと思う」

「え…!?」

あの時谷村が…?ということはあれを全部聞かれてしまっていた…克樹は猛烈な羞恥心に全身が火のように熱くなってくる。

「その後すぐ嶺亜くんは準備室を出てきて…俺と目が合った。声をかけようとしたけど、走って通り過ぎて行ってしまった。それで俺は自分のしたことがまだ赦されていないことを痛感した」

谷村のそのくっきりとした二重瞼の瞳は、悔悟に満ちていた。遠い過去の過ち、そして後悔…それを引きずっていることは今の克樹にも理解できた。

だとしたら、谷村は自分に何を伝えようとしているのだろう…

克樹は考える。さっき谷村は言った。克樹が誤解しないように、と…

そして、嶺亜は大切なものを失わないように自分の心を隠している…と。

その言葉の意味するもの…そこに到達して、克樹は谷村から視線をマリア像に移す。

「…」

射し込む朝陽に照らされて、マリア像は金色に輝いている。その笑みが迷いを払拭した。

克樹がその聖母の微笑みを前に立ちつくしていると、谷村の声が後ろから響く。

「嶺亜くんが大切な人を手に入れた時、俺はやっと赦してもらえる気がする」

克樹には、その声はマリアに懐胎を告げるガブリエルの声のように聞こえた。振り向き、谷村の目をじっと見る。

「…ありがとうございます。もう一度…僕は嶺亜先生と話してみます」

少し寂しそうな色をその大きな瞳に宿した後、谷村は強く頷いた。