「なんとか衣装入ったね克樹。良かった良かった」

楽屋で衣装を纏ってスタンバイしていると、ヨセフの衣装に身を包んだ琳寧が茶化してくる。今野はマリアの衣装を着て椅子にガニ股で座って携帯電話をいじっていた。

「吹奏楽部の演奏最後の曲になったぞ。舞台袖に移動して」

連絡係が呼びに来て、克樹は舞台袖に向かう。威勢の良い吹奏楽が聞こえてきたかと思えばその曲は終わり、拍手が鳴り響く。

「次は3-1によるイエス・キリストの生誕劇です。クラス一丸となってこの日まで練習・制作を頑張ってきました。高校生活最後のステージを精一杯悔いなくやりきります。最後までどうぞ見守り下さい」

アナウンスが流れ、拍手が起こる。そして前奏が鳴り響いて幕が上がった。

「…」

克樹は少し緊張してきた。三日前のリハーサルでは全校生徒の前で一度演じているし、セリフも歌も完璧に仕上げたつもりだが、また違った雰囲気に落ち着かなくなる。

(落ち着け落ち着け…嶺亜先生が見てる。失敗したらまたイジられる。『食べてばっかいるからだよ』って…)

しかしそれはそれで、いいような気もした。そうすると不思議なほどに緊張は和らいでいく。出番が来て、克樹は舞台中央に歩み出て跪くマリア役の今野の前で手をかざした。

「マリアよ、あなたに神のお告げを伝えに来ました。あなたは神の子を身ごもります」

そう告げた後、客席を向いて一歩前に出る。ガブリエルソロの前奏が鳴った。荘厳なオルガンの音色が講堂に静かに響いた。

「御使い ガブリエル マリアに御告げぬ めでたし恵みあれ 汝 神の恵みを得たり 身ごもりて男子を産まん その名はイエスと唱えられん」

歌いながら、克樹は不思議な感覚に囚われる。

歌う時は、講堂の一番奥を見て歌えと助言された。それに従って講堂での練習の時も、リハーサルの時もそうした。そして今もその通りに視線を最も遠くに向けた。

克樹の視線の先には、嶺亜がいた。

講堂は全校生徒を収容できる大きさで、約750人がここに収まる。座席は24列まであった。最後列に座っている人物が判別できるかどうかなんて検証したこともないが、舞台と違って客席は暗いし不可能のように思える。

にもかかわらず、克樹の視覚は嶺亜を捉えていた。

周りの全てがぼんやりとぼかされ、いやに嶺亜だけがはっきりと映る。

目が合った…気がした。

もし自分がマリアに恋するガブリエルだったら…マリアの元に降りてきて、懐胎を告げるだけで終われるだろうか。そんな仮説が刹那にやってくる。

ずっと天上から見ていた愛しいマリアに…他の男との子どもができたことを祝福出来るのか?いや、そもそも聖書によればマリアは処女懐胎のはずだから、ヨセフですらマリアの本当の相手ではない。

マリアが本当に愛したのは誰か…

ガブリエルは、マリアに自分の気持ちを打ち明けることが出来るのか。そして、打ち明けたとしてマリアはどう答える?

そんな数え切れないほどの疑問符が頭を埋め尽くしていたかと思うと、気付けば生誕劇は終わりに近付いていた。ガブリエルは一番の見せ場があるものの、出番自体は序盤で終わる。あとは最後のカーテンコールのみだった。

キャストが一人ずつ紹介され、お辞儀をして拍手が起こる。克樹はもう一度講堂の奥を見やったが、嶺亜は発見できなかった。

「お疲れー。良かったねー克樹、歌完璧だったじゃん。なんか取り憑かれたように入り込んでたよ」

楽屋で琳寧はすでに上裸だった。トラブルもなく概ね無事に終わることが出来て安堵のムードが漂っている。今野は「ちょっと音外した」と少し不満げではあったがその横では大光と矢花が大光作のモダン宿屋をバックに記念写真を撮っている。他のクラスメイトもお互いに労いの言葉をかけ合ったり写真撮影をしていた。

生誕劇終演後は文化祭終了の4時まで自由解散で、それから片付けを始める予定だった。

克樹はなんとなく美術室に来た。時計を見ると2時55分を指している。展示は3時半までしているが、もう殆ど人は来ないのか階全体が静かだ。展示は美術室しかしていない。

無人の美術室には傾きかけた陽が射し込んでいる。金色の光に教室の半分が照らされていた。

自作の拙いガブリエル像を眺めながら、劇中に抱いた疑問をその絵に投げかけてみる。

「マリアに誰か他に好きな人がいても…祝福できる?」

しかしその不細工なガブリエルは何も答えてはくれなかった。代わりに後ろからガブリエルとは違った声が響く。

「何ブツブツ言ってんの?」

「うわぁ!」

不意打ちで嶺亜が後ろに現れたものだから、動揺して克樹は椅子から転げ落ちた。強かに左の臀部を打ち付け、痛みが走る。

「いてて…」

「何やってんの?食べ過ぎで頭おかしくなっちゃった?自画像相手に独り言なんて」

「いやその…ちょっと疲れて…」

内容までは聞かれてなかっただろうか…嶺亜はビニール袋片手にきょとんとしている。克樹は痛むお尻をさすりながら立ち上がった。

「ちょうど良かった。もうお客さんも来なさそうだし片付け始めようと思って。それ準備室に引っ込めて」

克樹の描いたガブリエル像を指して、嶺亜は準備室のドアを開けた。その後ろに克樹はキャンバスを担ぎながら続く。

準備室は雑然としていた。元々色んな画材や道具が収められているが、整理する暇がなかったのかけっこう散らかっている。克樹はキャンバスを端に置いた。

「ガブリエル頑張ってたじゃん」

珍しく克樹を労ったかと思うと嶺亜は袋から何かを取りだし、克樹に差し出した。購買で売っているよもぎ団子で、克樹の好物だった。

「努力に免じてそれ食べるの許してあげるよ。カロリーも少なめだから」

くすくす笑って、嶺亜はもう一つよもぎ団子を出して食べ始める。小さな口でもぐもぐと食べるその優雅さに一瞬見とれてしまう。射し込む陽を背中に受けて、まるでマリア像のような神々しさを放っていた。

「文化祭終わったら本格的に受験勉強に専念だね」

そうだ。このところ勉強が疎かになってしまっていたから気を引き締めないと高校受験の二の舞になってしまう。それだけはなんとしても避けたい。

だが…

そう感じる一方で、克樹は最近こう思うようになっていた。

高校受験に失敗したから嶺亜に出会えた。

それは紛れもない事実だ。本来の第一志望の高校は全寮制でもないし、自宅から充分通学が可能な距離だし、この辺りに来ることなんてほぼないに等しい。すれ違うことすらなかっただろう。

不思議な運命の導きだ。こういうのはキリスト教的になんて言うんだっけ…聖書にあったかな…と克樹がぼんやりと考えていると、嶺亜は訝しげな表情になる。克樹が黙っていたからだ。

「何?志望校ヤバいの?中間テストの成績は相変わらず1位だったみたいだけど」

「いえ、そういうわけでは…」

否定しながら、受験勉強に専念するということは、急激に嶺亜との繋がりがなくなるということだという事実に思い至った。

部活に行っている場合ではないし、美術の授業も取っていないしめぼしい行事もない。それこそ卒業してしまえばもう会うことだってままならないだろう。

それならばせめて、卒業式の日にでも気持ちを打ち明けるべきだろうか…

そんなできそうもないことが頭をよぎると、よもぎ団子を食べ終えた嶺亜がその指をぺろりと舐めるのが視界に映る。

どくん、と心臓が大きく脈打った。

急激に視界が揺れる。昨日の衝動がまた克樹の中に蘇ってきた。それは自分の意思とは全く無関係のように思えた。

「…何?」

驚く嶺亜の瞳が、間近にあった。

克樹は自分でも気付かないうちに彼の手首を掴んでいた。