Ne timeas,Maria,invenisti enim gratiam,apud Dominum
マリアよ、畏れることはない。 あなたは神から恵みを受けた。
「衣装チェックOK。音響は?」
「こっちもバッチシ。もし急に音声出なくなった場合もこっちで対応出来る」
「大道具と小道具は楽屋Bに。万が一の時の補修グッズも一緒に置いとくから」
文化祭前日は授業も午前中で終え、午後は専ら準備一色になる。昼ご飯を済ませるとそれぞれの持ち場の確認や設置などに慌ただしい。
克樹は自分の衣装のチェックを済ませると、美術部の展示の準備に向かうことにした。
「失礼しまーす」
美術室ではもうすでに他の部員は自分の作品をそれぞれのスペースに飾り終えていて、誰もいなかった。克樹はどうにか描き上げた自作のガブリエル像のキャンバスを準備室から引っ張り出してくる。
「…」
我ながらお世辞にもいい出来とは言えない。他の部員の作品は一応美術が得意なだけあってそれなりに出来映えがいい。比べられるのは嫌なので克樹は予め端っこのスペースを希望していた。
キャンバスを台に乗せ、作品名と自分の学年・名前を規定の用紙に記入し貼り付ける。これだけで終わりだったがなんとなく克樹は美術室に留まった。それはあることを期待していたからだ。
「何やってんの、克樹。劇の方はいいの?」
期待通り、それから10分くらいして嶺亜が美術室にやってくる。彼は顧問だから最終的に展示室のチェックに来るだろうと克樹は予測していた。
「あ、ハイ。衣装チェックだけしたら後はもうやることもなくて…ちょっと他の部員の作品をじっくり見たくて」
とってつけたような理由を口にすると、嶺亜は疑うような眼差しを向ける。
「今更美術に興味なんかないでしょ。サボってるだけじゃないの。なんか食べようとしてるでしょ?」
こういうイジりもなんだか久々な気がして克樹は感慨に耽る。
挙武の話を聞いた日から、偶然なのかなんなのか数日嶺亜には会えなかった。昨日たまたま職員室を訪れた時に彼が新採研修に3日間行っていたことを知る。そういえば谷村も物理の授業に姿を見せず、二年の物理教師が代役で授業をしていた。
嶺亜はいつもと変わらない。素っ気なく感じたこともあったが、それは徐々に薄まりまたこうしてイジってくれる。それはひどく幸せなことのように思えた。
だがその一方で、嶺亜の顔を見ると克樹は自動的に岸の顔もちらついてしまう。
教師と生徒では許されない関係になった。今もまだ、その心には岸がいるのだろうか…そんなことばかりがよぎってくる。
挙武は、嶺亜の大切な人というのが克樹なのかもしれない、と言ったが当の克樹にはあまりピンと来なかった。もちろん、そうだったらどれだけいいだあろうと何度も妄想した。だが悲しいことに、特別に克樹にだけ…というのは感じたことはない。
嶺亜は誰にでもそれなりに優しい。例えば大光なんかは反抗的だったりおちょくったりもしているが結局のところ軽く交わされて逆にイジられてるし、琳寧とも生徒の仲では真っ先にLINE交換をしたらしいし、かなり親しい間柄だ。クッキーを作ったり美術の授業で何かと世話になっているそうだし、矢花とは好きなバンドが同じらしくその話で盛り上がっている。今野は目立ったエピソードはないが、人をイジりがちな嶺亜にしては珍しく彼に対しては甘い部分がある。
否定材料が思いつくだけでもこれだけあるが故に、自分が特別であるなど口が裂けても言えないし思えない。あの時は挙武に言い返せなかったが克樹の中では彼の勘違いだろうということで処理されていた。
「いえ、さすがにさっき昼ご飯食べたばっかりだし…そんなことは…」
「昼ご飯何食べたの?」
展示物をチェックしながら嶺亜が問いかけてくる。分かっていてしている質問だ。克樹は正直に答える。
「鶏飯弁当とコロッケと生ハムサラダと…あとこんぴーの差し入れのミスドのドーナツを2つばかり…」
「バッカじゃないの?超高カロリーじゃん。よくもまあそんだけ胃袋に入るね。僕なんか蒲鉾とハンバーグだけの弁当食べたけど結局白米残したし」
呆れ顔で嶺亜は彫刻の位置を直すが、克樹にとってはその程度で済ますことのできる嶺亜の方が不思議だ。
嶺亜は食に対する興味も食欲も克樹の半分以下のように思える。だからこそ華奢なのかもしれない。スーツを着込んでいるが、ほっそりとした体型が見てとれる。
「ガブリエルの衣装ちゃんと入った?本番で着られなくなったらそれはそれで伝説に残りそうだけど」
くすくす笑って、嶺亜は克樹の描いたガブリエル像のキャンバスの前に歩み寄る。位置を微妙に直しながらまじまじとその絵を見つめた。
「よくよく見ると、自画像みたいに似てるじゃん。横に克樹の写真も置いとこうか」
「似てないですよ。僕はここまで丸くないし。さすがにこれよりは痩せて…」
失敗を重ねて塗り直す度に輪郭が広がっていって、ガブリエルはまるで相撲取りみたいになってしまった。大天使というより新米力士が白い布を纏っているだけのように見える。
「いや、そっくりだよ。『ガブリエル像』じゃなくて『自画像』にタイトル変えた方がいいって」
「それは言い過ぎですよ。いくら僕でもここまでは…」
楽しい時間だった。こうして二人きりで会話が出来る喜び…それはかけがえのないもので、永遠に続けばいいのにと願わずにはいられない。
だけどまた、自分の中に燻った火種がどうしようもなく不安定にさせる。
嶺亜の心には今、誰がいるのだろう
それが無性に知りたくなった。いや、そんな生やさしい感情ではない。好奇心とは全く違うもっと激しい欲求だった。
「…僕…」
何故か遠くの喧噪が克樹の耳の奥には響いてきた。ぼんやりと皆は今、それぞれの準備で忙しいのだろうなという思いがよぎる。
そして気付けばこう口にしていた。
「この間、岸さんと颯さんに会ったんです」
それまで柔和だった嶺亜の表情が、ほんの一瞬だけ強張った…気がした。
「偶然、同じ予備校の子が劇団神7のチケットを持ってて…観に行ったら挙武さんにも会って、楽屋に通してもらったんです」
「ふうん」
素っ気なく言って、嶺亜は手に持っていたペットボトルに口をつける。
「意外だね。克樹、演劇に興味あんの?」
返ってきたのはそんな淡泊な問いだった。嶺亜が今どういう心境でそう言ったのかはまだ克樹には測ることはできない。克樹は小さく首を横に振る。
「いえ、演劇のことはさっぱり…観たこともないし…僕が興味があったのは、岸さんという人がどんな人なのか、ということです」
かなり踏み込んだ答え方をしたつもりだったが、嶺亜は動じる様子はなかった。もっとも、彼は自分と違って真意を隠すことには長けてそうな気がしたからまだ分からない。
「岸に?なんで?ガブリエルやるから?確かに上手かったらしいからね。僕は1回くらいしかDVDで観たことないけど」
「いえ…」
克樹はもう一度首を横に振る。いつの間にか、手にはじわりと汗が滲んでいた。乾燥した、さして気温の高い日でもないのに。
「岸さんが、先生にとってどんな存在だったのかが知りたくて」
克樹は真っ直ぐに嶺亜の瞳を見つめた。
自分でも何故こんな大胆な質問が出来たのか分からない。強い衝動が、躊躇いも羞恥心も全て消し去ってしまった。知りたいという純粋な欲求しかそこにはなかった。
そう、今でも岸が嶺亜の心の中にいるのかが、どうしても知りたかった。もう自分の中だけで悩むのに限界が来ているのかもしれない。それを直接嶺亜の口から聞かずにはいられなかったのだ。
「…なんでそんなこと訊くの?」
嶺亜は目を反らさずに、そう問い返してきた。あまりにもそれが毅然としているものだから、逆に克樹の方が動揺させられてしまう。
だがその動揺が伝わる前に、嶺亜がふっと笑って克樹の描いたガブリエル像のキャンバスに手を置いてこう続けた。
「って言いたいところだけど、大方挙武の奴がなんかいらない情報克樹に与えたってところかな。本当にもう…あいつとは高校時代から何かと嫌味と皮肉の飛ばし合いだったからね。あることないこと克樹に吹き込んで、ほくそ笑んでる姿が目に浮かぶよ。いい大人が何やってんだか」
嶺亜は鼻を鳴らした。
「岸が僕にとってどんな存在かって?一言で言うと反面教師だよ。自分が教職に就くにあたって、あいつみたいにならないでおこうっていう教訓をくれた相手かな。だらしないし、情けないし、頼りないし、生徒にもナメられてたし…尊敬できるとこなんて何一つなかったよ」
「…」
動揺は回避されたが克樹はしかし、こんな答えが聞きたかったわけではない。もっと、嶺亜の心の奥深くに踏み込みたかったのだ。だからここで「そうなんですか」と引き下がることは出来なかった。自分の中で何かが壊れてしまっていることはもう自覚できる。
「岸さんが、途中で教師を辞めることになったのって…何が原因だったんですか?」
克樹はそうかまをかけてみた。自分は知っている、ということが伝わったかもしれない。再び心臓の鼓動ははやりだした。
だがやはり嶺亜は動じなかった。克樹は勝ち目のない闘いに挑んでいるに過ぎない。それを痛感する。
「そんなこと、僕が知るわけないじゃん。二学期の終業式にいきなり『岸先生は一身上の都合で退職されました』って報告しか聞いてないし。まあ演劇の世界目指そうとしたんじゃない?教師より合ってる気もするし」
そうしてまたもはぐらかされてしまう。しかしそれでも退けない。最後の手段として、言いたくもないことを口にしかけたその時、嶺亜は克樹の目の前に躍り出た。
ふいに、美しいその瞳が間近に迫ったことで克樹の心臓は跳ねる。そして…
「…いたっ」
おでこを指で弾かれた。
軽い痛みが走り、思わずそこを指でさすると嶺亜はにこりと笑う。
「下らないこと気にしてる暇があったらもう一度ガブリエルのセリフおさらいしときな。付き合ってやるからさ」
すたすたと美術室から出て行こうとする嶺亜に、克樹はそれ以上何も言えずに後を追うしかなかった。